帰って来る時分までには、たっぷり一時間の余裕があった。

     八十六

 その晩のうちに、お庄は雨のなかを湯島まで逃げて来た。
 目立たぬ黒絣《くろがすり》の単衣《ひとえ》のうえに、小柄な浅山のインバネスなどを着込んで、半分|窄《つぼ》めた男持ちの蝙蝠傘《こうもりがさ》に顔を隠し、裾を端折《はしょ》って出て行くお庄のとぼけた姿を見て、従姉《あね》は腹を抱えて笑った。
「かまうもんですかよ。彼奴《あいつ》にさえ見つからなけアいいんだ。」と、お庄は用心深く暗い四下《あたり》を見廻しながら出て行った。
 寂しい士官学校前から、広い濠端《ほりばた》へ出たころには、強い風さえ吹き添って来た。お庄は両手で傘に掴《つか》まりながら、すたすたと走るようにして歩いた。俥があったら乗ろうと思ったが、提灯《ちょうちん》の影らしいものすら見当らなかった。見附《みつけ》の方には、淡蒼《うすあお》い柳の蔭に停車場《ステイション》の明りが見えていたが、そんなところへ迂闊《うかつ》に入り込んで行くことも出来なかった。
 そこからは道が一条《ひとすじ》であった。神楽坂《かぐらざか》の下まで来ると、世界がにわかに明
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