りした。
「こんな流しは私《わし》ア初めて見た。東京には田舎のような上流《うわなが》しはありましねえかね。」
「ないこともないが田舎は何でも仕掛けが豪《えら》いで。まア東京に少し住んで見ろ。田舎へなぞ帰ってとてもいられるものではないぞ。」
「何だか知らねえが、私は家のような気がしましねえ。」母親は滌《すす》いでいた徳利《とくり》をそこに置いたまま、何もかも都合のよく出来ている、田舎のがっしりした古家をなつかしく思った。
父親が、明るいランプの下でちびちび酒を始めた時分に、子供たちはそこにずらりと並んで、もくもく蕎麦《そば》を喰いはじめた。母親は額に汗をにじませながら、荒い鼻息の音をさせて、すかすかと乳を貧《むさぼ》っている碧児《みずご》の顔を見入っていた。
「今やっと晩御飯かえ。」と、下宿の主婦《あるじ》は裏口から声かけて上って来た。
「皆な今まで何していただえ。」
「お疲れなさんし。」母親は重い調子でお辞儀をして、「何だか馴れねえもんだでね。」と、いいわけらしく言った。
「それでもお蔭で、どうかこうか寝るところだけは出来ましたえ。まア一つ。」と父親は猪口《ちょく》をあけて差した。
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