なく渡ると、そこにまた賑やかな一区画があった。川縁の柳の蔭には、俥屋の看板が幾個《いくつ》となく見えて、片側には食物屋《たべものや》がぎっしり並んでいた。
 広々した廓内《くるわうち》はシンとしていた。じめじめした汐風《しおかぜ》に、尺八の音《ね》の顫《ふる》えが夢のように通って来て、両側の柳や桜の下の暗い蔭から、行燈《あんどん》の出た低い軒のなかに人の動いているさまが見透《みすか》された。

     三十五

 お庄は芝居の書割りのなかに誘《おび》き入れられたような心持で、走る俥の上にじッと坐っていられなくなった。ふわふわするような胸の血が軽く躍《おど》っていた。
 叔父が行きつけの福本という茶屋は、軒並びでは比較的大きくて綺麗な方であった。お庄はその少し手前のところで俥を降りて、そこから薄明るい店へ入って行った。端の方に肥った二十三、四の色の浅黒い女が、酸漿《ほおずき》を鳴らしながら、膝を崩して坐っていたので、お庄はそっとその傍へ行って聞いてみた。
「今ちょッと電話で伺ったんですがね、こちらに小崎という人が来ておりませんですか。」
 女は軽く頷いてみせて、「石川島の小崎さんでしょ
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