啼《な》いていた。そこらが古くさく汚く見えた。お庄は自分の古巣へ落ち着いたような心持で、低い窓に腰かけていた。
「阿母《おっか》さん、私お茶屋などへ行っちゃいけなくて。」お庄は訊《き》いた。
母親は畳んでいた重い四布《よの》蒲|団《とん》をそこへ積みあげると、こッちを振り顧《かえ》って、以前より一層肉のついたお庄の顔を眺めた。
「お茶屋ってどんなとこだか知らないが、堅気のものはまアあんまり行くところじゃあるまい。」
「ちゃんとした家なら、行ったっていいじゃないの。」
「さア、どんなものだかね、私《わし》らには一向解りもしないけれど……どこかそんなところでもあるだか。」母親は立っていながら言った。
お庄はこの母親に言って聞かせても解らないような気がしてもどかしかった。
「お前そうして、そこへ行くと言うだかい。」母親はマジマジ娘の顔を見た。
「どうだか解りゃしない。行って見ないかと言う人があるの。」お庄は外の方を見ていながら、気疎《けうと》いような返辞をした。
「誰からそんなことを言われたか知らないけれど、まアあんまり人の話にゃ乗らない方がいい。もしか間違いでもあって、後で親類に話の出来ないようなことでもあっちゃ済まないで。」と、母親は暗いような顔にニヤニヤ笑って、
「その人はやっぱりあすこへ出入りする人でもあるだか。」
「一緒に働いている人さ。その人も近いうちにあすこを出るでしょうと思うの。」
「じゃ、その人はお前より年とった人ずら。自分が出るでお前も一緒に引っ張って行かずかという気でもあるら。」
母親は蒲団の前に坐り込んで芥《ごみ》を捻《ひね》りながら、深く思い入っているようであった。
夕暮の色が、横向きに腰かけているお庄の顔にもかかって来た。
「よくせき困ってくれば、時と場合で女郎さえする人もあるもんだで、身を落す日になれア、何でもできるけれど、家じゃ田舎にちゃんとした親類もあるこんだもんだで、あの人たちに東京で何していると聞かれて、返辞の出来ないようなむやみなことも出来ないといったようなもんせえ。あすこへ世話してくれた人にだって、そんなことを言い出せた義理じゃないしするもんだで……。」
お庄は、重苦しい母親の調子が、息ぜわしいようであった。
やがて下から声かけられて、母親が板戸を締めはじめると、お庄もむっ[#「むっ」に傍点]と黴《かび》くさい部屋から脱けて、足元の暗い段梯子を降りて行った。
二十三
「おや厭だぞえ、誰かと思ったらお庄かい。」
段梯子の下に突っ立っていながら、目の悪い主婦《かみさん》は、降りて来るお庄の姿を見あげて言った。お庄は牡丹の模様のある中形《ちゅうがた》を着て、紅入《べにい》り友禅《ゆうぜん》の帯などを締め、香水の匂いをさせていた。揉揚《もみあ》げの延びた顔にも濃く白粉を塗っていた。
「お前今ごろ何しに来たえ。塩梅《あんばい》でも悪いだか。」
主婦《かみさん》は帳場のところへ来てお辞儀をするお庄のめっきり大人びたような様子を見ながら訊いた。
お庄はそこにあった団扇《うちわ》で、熱《ほて》った顔を煽《あお》ぎながら、畳に片手を突いて膝を崩《くず》していた。
「これがお茶屋に行かずかと言いますがどんなもんでござんすら。」と母親が大分経ってから、おずおず言い出したとき、主婦《かみさん》はお庄の顔を見てニヤリと笑った。
「そろそろいい着物でも着たくなって来たら、そして先アどこだえ。」
「何だか浅草に口があるそうで……。」
主婦は詳しくも聞かなかった。そこへ客が入り込んで来たりなどして、話がそれぎりになった。
お庄は台所の隅の方で、また母親とこそこそ立ち話をしていた。
九時ごろにお庄は、通りの角まで母親に送られて帰って行った。
「それじゃ世話する人にも済まないようだったら、今いる家へ知れないように目見えだけでもして見るだか。」
母親は別れる時こうも言った。お庄は断わるのに造作はなかったが、それぎりにするのも飽き足らなかった。
帰って行くと、奥はもうひっそりしていた。茶の間と若い人たちの寝る次の部屋との間の重い戸も締められて、心張り棒がさされてあった。お鳥は寝衣《ねまき》のまま起きて出て、そっと戸を開けてくれた。
「私あのことどうしようかしら。」
お庄はお鳥の寝所《ねどこ》の傍にべッたり坐って、額を抑えながら深い溜息を吐《つ》いた。
お鳥はだらしのない風をして、細い煙管《きせる》に煙草を詰めると、マッチの火を摺《す》りつけて、すぱすぱ喫《の》みはじめた。
「どうでもあんたの好きなようにすればいいじゃありませんか。あんまりお勧めしても悪いわ。」お鳥はお庄の顔をマジマジ見ていた。
「そこは真実《ほんとう》に堅い家なの。」
「それア堅い家でさね。だけど、どうせ客商売をしてる
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