も持っていなかった。押入れのなかに転《ころ》がした風呂敷のなかに、寝衣《ねまき》と着換えが二、三枚に、白粉の壜《びん》があったきりで、昼間外へ出る時は傘までお庄のをさして行くくらいであったが、金が一銭もなくても買食いだけはせずにいられなかった。お鳥と一緒にいると、お庄は自分の心までが爛《ただ》れて行くように思えた。
台所ばかりを働いている田舎丸出しの越後《えちご》女は、よくお鳥に拭巾と雑巾とを混合《ごっちゃ》にされたり、奥からの洗濯物のなかに汚い物のついた腰巻きをつくねておかれたりするので、ぶつぶつ小言を言った。
「お前が来てから、何だかそこいらが汚くなったようだよ。」と、内儀《かみ》さんは時々出て来てはそこいらに目を配った。
「私口を捜しに行くんですから、奥へは黙っていて下さいね。どこかいいところがあったら、あなたも行かないこと。」お鳥は出て行く時お庄にも勧めた。
お庄はただ笑っていたが、この女の口を聞いていると、そうした方が、何だか安易なような気もしていた。貰いのたくさんあるようなところなら、自分の手一つで、母親一人くらいは養って行けそうにも思えた。
お庄は落ち着かないような心持で、勝手口の側《わき》の鉄の棒の嵌《はま》った出窓に凭《もた》れて路次のうちを眺めていた。するうちに外はだんだん暗くなって来た。一日曇っていた空もとうとう雨になりそうで、冷たい風は向うの家の埃《ほこり》ふかい廂間《ひさしあい》から動いて来た。
お庄はじれったいような体を、窓から引っ込めて行くと、自分たちの荷物や、この家の我楽多《がらくた》の物置になっている薄暗い部屋へ入って、隅の方に出してある鏡立ての前にしゃがんだ。ふと呼鈴《よびりん》がけたたましく耳に響いた。茶の間へ出て行くと、今店の方から来たばかりの小僧が一人、奥へ返辞もしないで、明るい電燈の下で、寝転んで新聞を読んでいた。お爨《さん》は台所で、夕飯の後始末をしていた。
「お前さんちょっと行ってくれたってもいいじゃないの。」
お庄は小僧に言いかけて、手で臀《しり》のあたりを撫《な》でながら、奥の方へ行った。奥は四、五日|甲高《かんだか》な老人の声も聞えなかった。内儀《かみ》さんは、時々二階へあがって、そこで一人かけ離れて冬物を縫っているお針の傍へ行ったり、物置の方へ物を捜しに行ったりして、日を暮した。お鳥に聞かされるいろいろの話に引き寄せられていたお庄は、しばらくこの主人とも疎《うと》くなったような気がしていた。
内儀さんは樟脳《しょうのう》の匂いの染《し》み込んだような軟かいほどきものを一枚出して、お庄に渡した。
「お前、旦那《だんな》がお留守で、あんまり閑《ひま》なようなら、ちっとこんなものでもほどいておくれ。」
お庄はそれを持って引き退《さが》って来たが、今急に手を着ける気もしなかった。
水天宮へ出かけて行った店の若い人たちが、雨に降られてどかどか[#「どかどか」に傍点]と帰って来た時分には、お庄もお鳥の帰りが待ち遠しいような気がして来た。そして明りの下でほどきものをしながら、心にいろいろのことを描いていた。
お鳥の帰ったのは、その翌朝であった。
「どうも済みません。」
お鳥は疲れたような顔をして、紅梅焼きを一ト袋、袂の中から出すと、それを棚の上において、不安らしくお庄の顔を見た。お庄はまだ目蓋《まぶた》の脹《は》れぼったいような顔をして、寝道具をしまった迹《あと》を掃いていた。お鳥は急いで襷《たすき》をかけて、次の間へハタキをかけ始めた。
二十二
お庄は久しぶりで湯島の方へ帰って行った。もといた近所を通って行くのはあまりいい気持でもなかったし、母親の顔を見るのも厭なような気がして、お庄は日蔭もののように道の片側を歩いて行った。昨夜《ゆうべ》お鳥のところへこの間の話の人にいい口があると言って、浅草の方から葉書で知らせて来た。先方は食物屋《たべものや》で、家は小さいけれど、客種のいいということは前からもお鳥に聞かされていた。それに忙《せわ》しいには忙しいが芸者なども上って、収入《みいり》も多いということであった。体が大きいから、年などはどうにもごまかせると言って、お鳥は女文字のその葉書を見せた。お庄は何だか担《かつ》がれでもするようで、こわかったが、行って見たいような心がしきりに動いた。お庄はもう半分、ここにいる気がしなかった。
下宿へ入って行くと、下の方には誰もいなかったが、見馴れぬ女中が、台所の方から顔を出して胡散《うさん》そうにお庄を眺めた。そこらはもう薄暗くなっていた。
母親は二階の空間で、物干しから取り込んだ蒲団の始末をしていた。窓際に差し出ている碧桐《あおぎり》の葉が黄色く蝕《むしば》んで、庭続きの崖《がけ》の方の木立ちに蜩《かなかな》が
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