さんには、もう逢えやしませんよ。」と、お庄はプラットホームを歩いていながら、帰りに弟に話しかけた。弟はまだ売り損ねたパナマがおかしいと言って思い出し笑いをしていた。
 送った人たちと一緒に、お庄は湯島の家へ引き返して来たが、今日は中村の家で初めて泊る日だと思うと、うんざりした。一《ひ》ト纏《まと》めにして出て来た、鏡台や着替えを入れた行李などが、もう運び込まれているころだとも思った。
「ああなるのも自業自得でしかたがない。」と、母親らは、まだ茶の室《ま》で茶を呑みながら、今立たしてやった叔父の噂をしていた。
 お庄もそれに釣り込まれながらも、時の移るのが気が気でなかった。

     八十二

「真実《ほんとう》におっかない人ですよ。」と、お庄は立ち際に、伯母と母親の前で、子の間芳太郎に刃物で追っかけられた話をしながら言い出した。お袋も一度は斬《き》りつけられて怪我《けが》をして、長いあいだ奥州の方の温泉へ行っていたということも話した。
「それじゃまるで話が違うがな。」と、母親は顔の色を変えていた。そんなところへお庄を取り持った四ツ谷の人たちの心持も疑わしいと思った。
「お前が客の前へ出るが悪いといって、そんなことをするだかい。」と、伯母も訊いた。
「まあそうなんでしょうね。婆さんはまた私がそうしないと機嫌が悪いんですの。あの人の腹では、芳太郎が可愛くないことはないんでしょうけれど、どうしたって血を分けた子じゃないんですから、いろいろお爺さんに言われると、その気になるんでしょうよ。やっぱり欲なんですね。」
「その塩梅《あんばい》じゃ、子息《むすこ》が柔順《おとな》しくしていたって、いつ身上《しんしょう》を渡すか解らないと言ったようなものせえ。」母親は望みがなさそうに言った。
「それでいて、私にはいろいろうまいことを言って聴かすんですの。」と、お庄は長く客商売をして来たお袋の自分に対する心持を話した。
「お前のような娘が一人あれば、こんな吝《しみ》ったれな料理屋なんかしていやしないなんて、そんなことを言うんですよ。」
「ああいう人は、女さえ見れアじき金にしようと、そんなことばかり思っているで。」と、伯母は冷笑《あざわら》った。
 母親と伯母のあいだには、また門閥の話が出た。田舎にいる父親が、まだ得心していなかったので、籍を送らずにおいたことが、かえって幸いであったようにも思えた。
「まア浅山ともよく相談して見るだい。片輪にでもされてから、何を言って見たって追っ着かない話だで。」伯母は心配そうに言った。
 お庄は家のなくなった母親のことも気にかかった。どうせ針仕事もあるから、お庄さえ辛抱する気なら、母親に来ていてもらってもいいと言っていたお袋の言《ことば》を憶《おも》い出したが、効性《かいしょう》のない母親が、手も口も喧《やかま》しい、あの人たちのなかにいられそうにも思えなかった。自分一人の体さえ、いつどうなるか解らないと思った。
「阿母さんこそ、田舎へ帰った方がよかったんですよ。」と、お庄はいじめるように言った。
 こんなに行き詰まっても、母親がまだ田舎へ帰るのを厭がっているのがもどかしくも思えた。
「正雄でも一人前にならにゃ、私《わし》も田舎へ提げて行く顔がないで。」と母親は切なげに言った。
「その間、私は私でどこかお針にでも行っているでいいわね。」
「お針って、お安さあはどんな仕事が出来るだい。」と伯母は手も遅く、気も利かない母親のことを嗤《わら》った。これまでにも、お庄に突き放されると、母親は、そこからそこまでへも、買物一つしに行くことが出来なかった。
 お庄の帰ったのは、八時ごろであった。婚礼後、芳太郎と一緒に、一度挨拶に行ったことがあるので、家の様子は大概解っていた。お庄はその少し手前で俥から降りて、途中で買った手土産を挈《さ》げながら入って行った。
 家はかなり人数が多かった。老人《としより》も子供もあった。お庄は一々それらの人に、叮寧《ていねい》に挨拶をしてから、自分ら夫婦のに決められた奥の部屋へ導かれた。芳太郎はちょうど湯に行っているところであった。
「どうもお世話さまでした。」と、お庄はランプを持って来てくれた細君に愛想よく礼を言って、まだ荷の片着かない部屋を見廻していた。

     八十三

 お庄もそこらを片着けてから、べとべとする昼間の汗を流して来ようと思って、鏡台の抽斗《ひきだし》にしまっておいた糠袋《ぬかぶくろ》などを取り出し、縁づいてからお袋が見立てて拵えてくれた細い矢羽根の置型《おきがた》の浴衣《ゆかた》に着かえた。
 部屋はたッた六畳敷きで、一間の押入れに置き床などがあって、古びた天井も柱もしっかりしていた。住居とはかけ放れた方の位置で、前はすぐ広い荒れた庭になっていた。崩れかかったような塀際
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