た盃洗《はいせん》を取って投げつけるし、お庄は胸から一杯に水を浴びながら、橋廊下の方へ逃げて行って、手※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]《ハンケチ》で頚首《えりくび》などを拭いていた。芳太郎はまた空の銚子を持って、部屋を飛び出した。
ここの家の様子をよく知っている、頭の禿《は》げた年取った方の将校は、ふらふらと追っかけて行く芳太郎の姿を見ると、次の部屋から出て来て見た。
「おいおいどうしたんだい。」と、その将校が声をかけた時分には、お庄はもう素足で庭へ飛び出していた。
暗い物置のなかへ逃げ込んだお庄が、料理場から引き返して来た芳太郎に隅の方へ押えつけられて、目のうえで刺身庖丁《さしみぼうちょう》を振り廻されているところを、将校も母親も駈けつけて行って、やっと取り押えた。刃物を※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]《も》ぎ取られた芳太郎が、披《はだ》けた胸を苦しげな荒い息に波立たせながら上へ引っ張りあげられると、お庄も壊れた頭髪《かみ》を手で押えながら真蒼《まっさお》になって物置を出て来た。そこらはもう暗くなっていた。
その晩、牛込から親父が呼び寄せられた。
「脅《おど》かすんだよ。私なんざ慣れッっこで平気なものさ。」と、お袋はしばらくぶりで帰って来た爺さんと、酒を飲みながらお庄に言った。
「こんなことは、四ツ谷なぞへ行って、あまり弁《しゃべ》っちゃいけないよ。」お袋はこう言ってお庄に口留めをした。
芳太郎も酔いがさめると、早くから奥へ引っ込んで寝てしまった。
八十一
爺さんが来て、また帳場に頑張ることになってから、芳太郎はしばらく四ツ谷の媒介人《なこうど》の家に預けられた。
その話が決まるまでには、お庄も媒介人《なこうど》から事をわけていろいろに言って聴かされた。火災保険の重立《おもだ》ちの役員であった媒介人《なこうど》の中村の言うことには、お袋などの所思《おもわく》とはまた違ったところもあった。中村は爺さんやお袋やお庄の顔を揃《そろ》えている折にも、自分の考えを述べて、爺さんと反《そ》りの合わない芳太郎を、お庄と一緒に一時自分の家へ引き取ることに話を纏《まと》めた。
忙しい時は、ちょいちょい手伝いに来るという約束で、お庄が中村の家へ移って行ったのは、病気で困りきっていた金助町の叔父が、ちょうど上野から田舎へ立った日の夕方であった。お庄は正雄と一緒に停車場まで見送ってやった。
叔父の家は、その三、四日前に畳まれてあった。雑作も棄売りにして、それで滞っていた払いをすましたり、自分もいくらか懐へ入れて、町に涼気《すずけ》の立った時分に、湯島の伯母の家を俥で出て行った。
叔父は田舎へ行っても、快く自分を迎えて、養生をさしてくれそうな隠れ家の的《あて》とてもなかった。東京で世話をしてやった友人が町でかなりな歯科医の玄関を張っている、そこへ行くか、亡《な》くなった妻の実家の持ち家が少しばかりある、その中の一つを借りて起臥《きが》するかよりほかなかった。どっちにしても、こんな病人に来て寝込まれるのを迷惑がるのは、解りきっていた。
田舎でみっちり養生をして、癒《なお》ったらまた出て来て、運を盛り返そうという心組みのあることは、痩《や》せ衰えた叔父の顔にも現われていた。
「私はまだ結核にはなっておらんつもりだで――。」と、叔父は立つ前にもそう言って、一人では道中が気遣われると言って危ぶむ母親や伯母に笑って言った。
「そんなこといって、汽車のなかで血でも吐いたらどうすらい。」と、母親は弟をたしなめた。ことによったら糺か繁三に行ってもらってもいいし、正雄がついて行ってもいいと思ったが、強《し》いて勧めもしなかった。
「工合が悪かったら、すぐ宿屋へ入ってどっちへでも電報を打たっし。」と、伯母も言い添えた。
叔父の手荷物と言っては、書生で出て来た時分ほどの物すらないくらいであった。時計や指環などもとっくに亡くなって、汚れたパナマだけが、京橋で活動していた時分の面影を遺《のこ》していた。そのパナマも、遊びに来る糺の友人に買ってもらおうとしたくらいであったが、買値《かいね》を言えば嗤《わら》われるほどであったので、叔父は気持を悪くして、それだけは冠《かぶ》って行くことにした。
正雄もお庄も、型の古いその帽子を冠って、三等客車に乗り込んで行く、叔父の、窶《やつ》れて耄《ぼ》けたような姿を見て、後からくすくす笑っていた。
叔父はお庄のことなどは、口へ出して聞きもしなかった。出来る時分にあまり世話をしておかなかったことが、心に省みられたからでもあろうし、このごろ様子や心持のすっかり渝《かわ》った姪《めい》の身のうえを知るのも厭《いと》わしいように見えた。お庄も自分のことを言い出すどころではなかった。
「叔父
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