で行くことも出来なかったが、そのままそこを出る気にもなれなかった。幾度も声をかけようとしたが、咽喉《のど》が渇《かわ》きついているようで、声も出なかった。高座からは調子はずれの三味線の音ばかり耳について、二人並んだ芸人の顔なぞは、目にも入らなかった。二人は時々顔を見合って話をしていた。お庄はそのたびに胸がいらいらした。いつか番傘を借りて行ってから顔を覚えられてしまった、近所の折を拵える家の子息《むすこ》だという顎《あご》の長い中売りの男が、姿を見つけて茶を持って来ながら、
「お連れさんがそこへ来ていらっしゃいやすよ。」と言ってその顎を杓《しゃく》った。その時にお増が後を振り顧《かえ》った。磯野も振り顧った。
お庄は明けてくれた磯野の右側の方へ座を移した。
「人を出し抜いたり何かして随分ね。私を誘うという約束だったじゃありませんか。」と、少し強《きつ》いような調子で言った。
この前にも夜天神を散歩している時、お増は浮いた調子で磯野に歌を謳《うた》って聞かせたり、暗いところをしな垂《だ》れかかるようにして歩いていた。その時は男に媚《こ》びることに慣れている厭味なこの女のそうした癖だと思って見て見ぬ振りをしていたが、そうとばかりに澄ましていられなくなった。
「そういうわけじゃないのよお庄ちゃん。」とお増は小さい可愛い手頭《てさき》に摘んだ巻莨などを喫《ふか》して、「誘おうと思ったけれど、もう時間も遅かったしきっとお庄ちゃんが先へ来ているだろうと思ったのよ。決して出し抜いたわけじゃないんですから、どうぞ悪しからずね。」
御簾《みす》がおりてからも、二人はしばらくそんなことを言い合った。
「まあいいじゃないか。己《おれ》が悪かったんだから。」と、磯野は制した。
お庄は世間摺れのした年上の女に、そう突っかかって行くことも出来なかった。二人だけのおり、後で磯野に話をすれば筋道の解ることだとも思った。
三人はもう落ち着いて高座へ耳を澄ましてもいられなかった。お庄は始終磯野に話しかけるお増の様子に気を配ることを怠らなかった。お庄を傍につけておいて、時々|謎《なぞ》のようなことを言い合っている二人の素振りには、ずうずうしいようなところがあった。
中入り前に寄席を出ると、その足で蕎麦屋《そばや》へ入って、それから寒い通りを縺《もつ》れ合って歩いていた。蕎麦屋を出る時には、お庄の心も多少落ち着いていた。
「私のようなものでも、どうぞ姉と思って交際《つきあ》って頂戴ね。磯野さんにも、芳村の弟のつもりで、これから力になって戴《いただ》くことに私お願いしたんですからね。」と、お増は猪口《ちょく》を差しながらお庄に話しかけた。なにかにつけて源之助の仮声《こわいろ》ぶりを演《や》るその調子が、お庄の耳には舐《な》めつかれるようであった。
帰りに磯野もお庄もお増の宿へ寄ることになった。六畳ばかりのその部屋はきちんと片着いていた。先刻《さっき》出て行ったままに、鏡立てなどが更紗《さらさ》の片《きれ》を被《か》けた芳村の小机の側に置かれて、女の脱棄てが、外から帰るとすぐ暖まれるように余熱《ほとぼり》のする土の安火《あんか》にかけてあった。
「私冷え性なものですから、安火がなくちゃどうしても寝つかれないの。」と、お増は中へ手を挿《さ》し入れて、火を掘《ほじ》くった。そしてそこから小さい火種を持ち出して、火鉢に火を興《おこ》しはじめた。長いあいだ慣らされて来たこの夫婦の切り詰めた世帯が、炭の注《つ》ぎ方にも思いやられた。田舎からの細い仕送りで、やっと図書館通いをしている芳村が、三度の食事を切り詰めても、傍に女がいなくては、一日も本を読んでいられないということを、お庄はお増から聞いて知っていた。
口を窄《つぼ》めて火を吹いている、生《は》え際《ぎわ》の詰ったお増の老《ふ》けた顔を横から眺めながら、お庄は毎日弁当を持って図書館へ通っていた芳村の低い音声や、物優しい蒼い顔を想い出していた。脚気《かっけ》で悩んでいる時も、お増は男を低い自分の肩に寄りかからせながら、それでも図書館通いを続けさせていた。
六十四
三人で安火に当っているうちに、磯野は腹が痛むと言い出して、そこへ突っ伏した。お増は押入れから自分の着物を出して来て、背《せなか》へ被《か》けたり、火鉢の抽斗《ひきだし》から売薬を捜して飲ませたりしたが、磯野の腹痛は止まなかった。
「いけないわね。」と、お増は独りで気を揉《も》みながら、枕など持ち出して来て、
「気味が悪いでしょうけれども、少しそこにお寝《よ》っていらっしゃいよ。」
「あまり晩《おそ》くならないうちに、お庄ちゃんは一足先へお帰り。叔父さんが心配するといけませんよ。」と、大分経ってから、安火に逆上《のぼ》せたような赫《あか》い顔
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