て、ずぶ働かないでいるわけにも行かないでね。」
「そんなことくらい何でもないじゃないか。気に苦労がないだけでもいい。またあのくらいよく出来た養子もないものせえ。働くことも働くし姑も大事にする。」
母親もお庄も、我《が》を張って断わることも出来ないと思った。
お庄は日が暮れると、天神下にある磯野の叔父の家へ、時々訪ねて行った。以前はかなりの船持ちであったという磯野の叔父はもと妾であった女と一緒に、そのころそこに逼塞《ひっそく》していた。下谷で営《や》っていた待合も潰《つぶ》れて、人手に渡ってから、することもなく暮していた。
お庄は夏の末に、また出て行くと言った磯野の言《ことば》を想い出しては、この叔父から、田舎の消息を聞き出そうとした。
六十二
お庄と母親とが障子張りをやっていると、そこへお増も来て手伝った。
免状を取ると一緒になるはずの芳村が、学資の継続問題で、秋の末に郷里へ帰ってから、お増は始終ここへ入り浸っていた。四つも五つも年上のこの女に附き絡《まと》われるのをうるさがって、二階にいた中江という書生も、そのころはどこへか引っ越して行方《ゆくえ》が知れなかった。
お増はお庄と一緒に、茶の間で障子を張りながら、自分の身の上のたよりないことを話した。お増は自分の親を知らなかった。浜町のある遊び人の家で育ったことだけは解っているが、そのほかのことは何にも知れていなかった。ようやく小学校を出た時分から男とと関係して、田舎の医師《いしゃ》のところへ縁づく前には、ある薪炭商《しんたんしょう》の隠居の世話になっていた。
「真実《ほんとう》に私ほど苦労したものはありませんよ。」と、お増は粗雑《ぞんざい》な障子の張り方をしながら、自分のことばかり語った。
「これで芳村がまた駄目となれア、私だって考えまさね。」
お庄も母親も人のこととばかり聞き流してもいられなかった。
奥では磯野が叔父と碁を打っていた。磯野がまた東京へ出て来たのは十一月の初旬で、お庄は叔父や母親に隠れて、時々叔父の家で逢っていた。問屋の方をすっかり封ぜられた磯野は、前のように外を遊び行《あ》るいていてばかりもいられなかった。碁敵《ごがたき》や話し相手に渇《かつ》えている叔父も、磯野の寄りついて来るのを、結句|悦《よろこ》んでいた。医師《いしゃ》の糾や繁三が来ると、すぐに石を消毒して、済んだあとでもまた自分の手を注意深く消毒するのが気にくわなかったが、それすら今はあまり相手をしてくれなくなった。
障子張りが一ト片着き片着いてから、衆《みんな》は一緒に晩飯を食べた。お増は芳村のいない宿の部屋へ帰って、昨日から持越しの冷たい飯を独りで食べる気がしなかった。
「話を聞いてみれば、あの人だって可哀そうですよ、寄りつくところがないんですからね。」と、お庄は後でお増のことを噂した。
「一生懸命芳村さんに噛《かじ》りついていたって、その芳村さんがどうなるか知れやしない。」
お庄はそう言いながら、奥の箪笥のうえに置かれた鏡の前に立って、髪を直していた。磯野とお増と三人で、晩に寄席に行く相談が、飯の時取り決められてあった。磯野はお増に寄席を強請《ねだ》られると、そのつもりで、飯が済んでからお増と一緒に、一旦帰って行った。
お庄は顔も化粧《つく》り、着物も着替えて待っていたが、時計が七時を打っても八時を打っても誰も来なかった。お庄はじっとして落ち着いていられなかった。
軒の外へ出て見ると、雨がしぶりしぶりと降り出している。お庄は出たり入ったりしていたが、待ちきれなくなって、傘《かさ》を持ち出して、つい近所のお増の宿の前まで様子を見に行った。
お増の宿は、その番地の差配をしている家の奥の方の離房《はなれ》で、黒板塀《くろいたべい》の切り戸を押すと、狭い庭からその縁側へ上るようになっている。お庄はその切り戸の節穴から、そっと裏を覗《のぞ》いてみると、離房《はなれ》の方の板戸は、ぴったり締っていて、中に人気《ひとけ》もしなかった。お庄は急いで天神の通りの方へ出て行った。
磯野の叔父の家では、やっと飯を済ましたところであった。叔父は茶の室《ま》の火鉢のところに胡坐《あぐら》を組んで、眼鏡をかけて新聞を見ていた。
お庄は上《あが》り框《がまち》のところに膝を突いて、奥の方を覗き込んだが、磯野は三時ごろにぶらりと出て行ったきり、まだ帰っていなかった。
「私アまた庄ちゃんのとこだと思ったら、そいつアおかしいね。」叔父はそう言いながら、また新聞に目を移した。
寄席へ入って行くと、目をきょろきょろさせながら、四下《あたり》を見廻しているお庄のすぐ目の前に、磯野とお増が狎《な》れ狎《な》れしげに肩を並べて坐っていた。
六十三
お庄はその側《なか》へ割り込ん
前へ
次へ
全69ページ中49ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング