でから、どう言われても帰る気になれなかった。それでも、その子が育ってでもいれば、また帰る気になったかも知れないけれど。」
「そうすれば、私たちだっていなかったかも知れないわ。」
「そうせえ。」と、母親は弛《ゆる》んだような口元に笑《え》みを浮べながら、娘の顔を眺めた。
田舎の思い出|咄《ばなし》がいろいろ出た。お庄はべったり体を崩して、いつまでも聴き耽《ふけ》っていた。するうちに疲れたような頭脳《あたま》が懈《だる》くなって来た。
「叔父さんはまた内儀《かみ》さんを貰うでしょうか。」お庄は訊き出した。
「さあ、どうするだかね。先がまだ長いでね。」
お庄は倦《う》み疲れたような心持で、壁に凭《もた》かかって、そこに取り散らかったものを、うっとりと眺めていた。
五十三
四十九日の蒸物《むしもの》を、幸さんや安公に配ってもらってから、その翌日《あくるひ》母親とお庄とは、谷中《やなか》へ墓詣りに行った。その日はおもに女連であった。公使館の通訳の細君に、丸山の内儀《かみ》さんたちが家へ集まって、それから一緒に出かけた。子供がよく遊びに来るので、近しくしていた向うのある大店《おおだな》の通い番頭の内儀《かみ》さんも、その子供をつれてやって来た。この内儀さんは、叔母が存命中ちょくちょく芝居を見に行った。入院中も時々来て見舞ってくれた。その子供は見て来た芝居の真似をして衆《みんな》を笑わせるほど、ませて来た。お庄は子を膝に抱いて俥《くるま》に乗った。
寺で法師《ぼうず》がお経を読んでいる間も、一回はにやけた風をさせたその子供の仕草で始終笑わされ通しであった。お庄も母親もどこかに叔母の遺《のこ》して行った物を体につけていた。お庄は小紋の紋附に、帯を締めて、指環で目立つ大きい手を気にしながら、塔婆《とうば》を持って衆《みんな》と一緒に墓場の方へ行った。
「そんなに塗《なす》くってどうするつもりだ。まるで粉桶から飛び出したようだ。」と、出がけに叔父はお庄の顔を見て笑ったが、お庄は欲にかかってやっぱり塗り立てて出た。
帰りに衆《みんな》は上野をぶらぶらした。池には蓮がすっかり枯れて、舟で泥深《どろぶか》い根を掘り返している男などがあった。森もやや黄ばみかけて、日射《ひかげ》が目眩《まぶ》しいくらいであった。学生風の通訳の細君が、そこから一ト足先に別れて行ってから、一同は広小路の方へ出て、それから梅月《ばいげつ》で昼飯を食べた。大阪生れの丸山の内儀さんは、お庄にそう言って酒を一銚子誂えて、天麩羅《てんぷら》に箸をつけながら、猪口《ちょく》のやり取りをした。
斑点《しみ》の多い母親の目縁《まぶち》が、少し黝赭《くろあか》くなって来た時分に、お庄の顔もほんのりと染まって来た。色の浅黒い、痩《や》せぎすな向うの内儀さんは、膝に拡げた手拭の上で、飯を食べはじめた。
そこを出たのは、もう日の暮れ方であった。
叔父がまた新たに成り立とうとしている会社のことで、家で仲間と相談会を開いていた。叔父は真面目な他の会社などへ勤めて、間弛《まだる》っこい事務など執っていられなかった。子供に続いて、妻が長患《ながわずら》いのあげくに死んでから、家というものを、あまり考えなくなった。それだけ心が安易にもなっていたし、緩《ゆる》んでもいた。
しばらく絶えていた烏森の方へ、叔父はまたちょくちょく足を運び始めた。家にいる時は、寝ても起きても新しく企てられた会社のことを考えていた。
「どんな向きの会社だか知らないけれど、そんなことをやりはねて、また失敗《しくじ》るようなことがあっては困るでね。それよりかやっぱり口を捜して、月給を取っていた方が気楽のように思うがね。」母親は時々弟に頼むように意見をした。これという資本もない考案中の会社が、どうせいかさま[#「いかさま」に傍点]なものだということが、母親の頭脳《あたま》にも不安に思われた。
「まあ黙って見ておいでなさい。私も今となって、不味《まず》い弁当飯も食っていられないで。」
石川島へ出ている時分セメントの取引きをして親しくなった男や、金貸しや地所売買の周旋屋をしている丸山などと一緒に叔父はその会社を盛り立てようとしていた。中には古い友達の中学の先生もあった。
金六町の方に設けられたその事務所へ、やがて一家が引き移ることになった。そこは灰問屋と舟宿との間に建った河岸《かし》に近いところであった。
田舎から出た当時から、方々持ち廻ったお庄親子の古行李が、叔父の荷物に紛れて、またそこの二階へ積み込まれることになった。
五十四
この家の格子先へ、叔父の能筆で書いた看板が掲《か》けられたり、事務員募集の札が張られたりした。毎日寄って来る人たちは、店にならべた椅子|卓子《テーブル》によって、趣
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