らせた。
 病人の顔は少しずつはっきりして来た。
「そこの茶箪笥に、私の湯呑があったかね。」患者はにちゃにちゃする口をもがもがさせた。
 看護婦が、渇《かわ》きを止めるような薬を、管《くだ》で少しずつ口へ注いでやった。
「病気が癒ったら、床あげに弁松《べんまつ》からおいしいものをたくさん取って、食べましょうね。」患者は思い出したように言い出して、衆《みんな》を笑わせた。
「ああ、それどころじゃない。どんなお金のかかることでもして上げるで、もう一度癒っておくれよ。」母親は泣くような声を出した。
 集まって来た人たちは、また寝台を離れて、床《ゆか》のうえに坐った。
「この塩梅《あんばい》じゃ、また二、三日もちますかね。」
「お庄ちゃん、叔父さんは……。」患者はうとうとしたかと思うと、また訊きだした。
「叔母さん、いまじきですよ。」
 お庄は叔父を見に行く風をして蒸《む》れるような病室を出て行った。そして廊下の突当りにある医員の控え室に入った。
 控え室は十畳ばかり敷ける日本室《にほんま》であった。糺の知合いの医員を、お庄も湯島時代から知っていた。そして一緒に茶を呑んだり、菓子を摘んだりした。この部屋へよく遊びに来る、軽い脚気患者の、向うの写真屋のハイカラ娘とも、ちょくちょく口を利くようになった。お庄は叔父のいいつけで、この連中へ時々すしや蕎麦《そば》のようなものを贈った。叔母が別品だと言った助手が、西洋料理などを取り寄せて食べているのを見て、お庄は時々口に手※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]《ハンケチ》を当てて思い出し笑いをした。
「ああ、何て暑い晩でしょう。」お庄はその入口に膝を崩して、ベッタリ坐った。
「暑けアこの上の物干しへでもお上んなさい。」そこにワイシャツ一つになって臥《ね》そべっていた知合いの医員は、傍《はた》から揶揄《からか》うように言った。
 糺の兄弟の噂が二人の間に始まった。糺に近ごろ女が出来たということも男がお庄に話して聞かした。
「そうですかね、私ちっとも知りません。」お庄は顔を赧《あか》らめて、子猫のような低い鼻頭を気にして時々指で触った。
 お庄は暗い物干しで、しばらく涼んでいた。中形の浴衣《ゆかた》に、夜露がしっとりして、肩のあたりが冷たくなって来た。
 暑い病室へ入って行くと、患者の呻吟声《うめきごえ》がまた耳についた。お庄は老婦《としより》に替って、患者の傍の椅子に腰かけた。
 夜明け方から、叔母の様子があやしくなって来た。寝台に倚《よ》りかかって、疲れてうとうとしていたお庄が目をさますと、看護婦が出たり入ったりしていた。助手も注射器を持って入って来た。
 お庄は外の白《しら》むのを待って、俥を築地へ走らせた。

     四十七

 家の戸がまだ締っていた。格子戸も板戸も開かなかった。お庄は俥屋を表に待たしておいて、裏口へ廻って、母親を呼んだ。母親は「おいおい。」と返辞をしながら出て来た。
「どうしたえ。お此さんの容体がまた悪いだか。」母親は台所の框《かまち》に腰掛けて訊いた。
 お庄も懈《だる》い体を水口の柱に凭《もた》せかけながら、叔母の容態を話した。
「それじゃとうとう駄目だかな。」と、母親はがっかりしたように言って、天窓を引いたり、窓を開けたりした。
「それでもまあ保《も》った方さ。あのくらいにして駄目なのなら、よくよく寿命がないのだ……。」
 叔父がまた家を開けていた。
「丸山さんへ行って、花でも引いているら。」と母親は昨夜《ゆうべ》も二時ごろまで待たされたことを話しながら、床をあげたり、板戸を開けたりした。
 お庄は人気のない家のなかを、落ち着かぬ風であっちゆきこっち行きしていた。葬式《とむらい》や骨《こつ》あげに着て行く自分の着物のことなどが気にかかった。田舎から来る、叔母の身内の人たちの前も、あまり見すぼらしい身装《みなり》はしたくないと想《おも》った。
 母親とお庄は、奥座敷の箪笥の前に立っていながら、そのことについていろいろと相談した。
「なあに間に合うて。今日の午前《ひるまえ》に目を落したって、葬式《とむらい》は明後日《あさって》だもんだで……それも紋を染めていたじゃ間に合いもすまいけれど、婚礼というじゃなし石無地《こくむじ》でも用は十分足りるでね。それでなけれアお此さんの絽《ろ》の方のを直すだけれどな。」
 母親は落ち着きはらって、いろいろの見積りを立てていた。
 とにかくお庄は、叔父を捜しに出かけることにした。入舟町の方から渡って行く中ノ橋あたりは、まだ朝濛靄《あさもや》が深く、人通りも少かった。その家では、女中と娘の子とが起きているぎりで、遊びに疲れた主人夫婦も叔父も、今ようやく寝たばかりのところであった。叔父のたおれている座敷には、帯や時計や紙入れや飲食いした死
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