て、莨を喫《す》っていた。
 お庄はただ笑っていた。
「小言でも言われただかい。」
「いいえ。」
「何か失敗《しくじり》でもしたろ。」主婦《あるじ》はニヤニヤした。
「いいえ。」
「それじゃあすこが厭で逃げて来ただかい。逃げて来たって、お前の家はもう東京にゃないぞえ。」
 お庄は袂で括《くく》れたような丸い顎《あご》のところを拭いていた。
「それにあすこはお父さんが、ちゃんと話をつけて預けて来たものだで、出るなら出るで、またその話をせにゃならん。お前は黙って出て来ただかい。」
「…………。」
「そんなことしちゃよくないわの。向うも心配しているだろうに。」と、主婦《あるじ》は煙管《きせる》を下におくと、台所の方へ立って行った。そして、楊枝を使いながら、「家へ帰ったっていいこともないに、どうして浅草で辛抱しないだえ。銀行へ預けた金もちっとはあるというではないかい。」
 お庄はしばらく見なかったこの部屋の様子を、じろじろ見廻していた。
 奥から二男の糺《ただす》も、繁三も起き出して来た。今茲《ことし》十九になる糺はむずかしい顔をして、白地の寝衣《ねまき》の腕を捲《まく》りあげながら、二十二、三の青年のように大人《おとな》ぶった様子で、火鉢の傍に坐ると、ぽかぽか莨を喫い出した。
「糺や、お庄が浅草の家を逃げて来たとえ。」と主婦《あるじ》は大声で言った。
 糺は目元に笑って、黙っていた。
「また詫《わ》びを入れて帰って行くにしろ、このまま出てしまうにしろ、断わりなしに出て来るというのはよくないで、お前は葉書を一枚書いて出しておかっし。」
 糺はうるさそうに口を歪《ゆが》めていた。
 朝飯のとき、お庄も衆《みんな》と一緒に餉台《ちゃぶだい》の周《まわ》りに寄って行った。
「浅草へ行ってから、お庄もすっかり様子がよくなった。」糺は飯を盛るお庄の横顔を眺めながら笑った。

     十二

 ここの下宿は私立学校の医学生と法学生とで持ちきっていた。長いあいだ居着いているような人たちばかりで、菊太郎や糺とも親しかった。中には免状を取りはぐして、頭脳《あたま》も生活も荒《すさ》んでしまった三十近い男などが、天井の低い狭い部屋にごろごろして、毎日花を引いたり、碁を打ったりして暮した。夜はぞろぞろ寄席へ押しかけたり、近所の牛肉屋や蕎麦屋《そばや》で、火を落すまで酒を飲んだりした。北廓《なか
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