スウ聞えていた。
 お庄は裾《すそ》を卸《おろ》して、寝床の下の方から二階へ上って行くと、押入れのなかから何やら巾着《きんちゃく》のような物を取り出して、赤い帯の間へ挟んだが、また偸《ぬす》むようにして下へ降りて行ったころに、亭主がようやく起き出して、袖《そで》や裾の皺《しわ》くちゃになった単衣《ひとえ》の寝衣《ねまき》のまま、欠《あくび》をしながら台所から外を見ながらしゃがんでいた。
 お庄は体が縮むような気がして、そのままバケツを提げて水道口へ出て行った。泡《あわ》を立てて充《み》ち満ちて来る水を番しながら考え込んでいたお庄は、やがて的《あて》もなしにそこを逃げ出した。

     十一

 お庄はごちゃごちゃした裏通りの小路《こみち》を、そっちへゆきこっちへ脱けしているうちに、観音堂前の広場へ出て来た。紙片《かみきれ》、莨の吸殻などの落ち散った汚い地面はまだしっとりして、木立ちや建物に淡い濛靄《もや》がかかり、鳩《はと》の啼《な》き声が湿気のある空気にポッポッと聞えた。忙しそうに境内を突っ切って行く人影も、大分見えていた。お庄はここまで来ると、急に心が鈍ったようになって、渋くる足をのろのろと運んでいたが、するうちに、堂の方を拝むようにして、やがて仁王門《におうもん》を潜《くぐ》った。
 仲店《なかみせ》はまだ縁台を上げたままの家も多かった。お庄は暗いような心持で、石畳のうえを歩いて行ったが、通りの方へ出ると間もなく、柳の蔭の路側《みちわき》で腕車《くるま》を決めて乗った。
「湯島までやって頂戴な。」と、お庄は四辺《あたり》を見ないようにして低い声で言うと、ぼくりと後の方へ体を落して腰かけた。
 上野の広小路まで来たころに、空の雲が少しずつ剥《は》がれて、秋の淡日《うすび》が差して来た。ぼっと霞《かす》んだようなお庄の目には、そこらのさまがなつかしく映った。
 お庄は下宿の少し手前で腕車を降りて、それから急いで勝手口の方へ寄って行った。
 屋内《やうち》はまだ静かであった。お庄は簾《すだれ》のかかった暗い水口の外にたたずんで、しばらく考えていた。
「どうしてこんなに早く来ただい。」
 主婦《あるじ》は上って行くお庄の顔を見ると、言い出した。蒼白《あおざ》めたような頬に、薄い鬢《びん》の髪がひっついたようになって、主婦《あるじ》は今起きたばかりの慵《だる》い体をし
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