いその洋服屋は、外国へ行って来た最初の職人であった。お庄は外から帰りがけに、正体なく寝込んでいる弟の二の腕に彫りかけた入れ墨のあるのに目を着けた。
「正ちゃんは大変なことをしていますよ。」お庄が叔母に言いつけると、叔母もびっくりして出て来て見た。弟の腕には、牡丹《ぼたん》のような花が、碧黒《あおぐろ》く黛《すみ》を入れられてあった。
「誰にそんなことをされたんです。こんなもの早く取っておしまいなさい。正ちゃんは自分の体を何と思っているの。」と、お庄は叔母と一緒になって小言を言った。
夕方に弟はすごすご帰って行った。お庄はまた釜《かま》の下へ火を焚《た》きつけて、行水の湯を沸かしにかかった。
三十六
少し涼気《すずけ》が立ってから、叔母が上州の温泉へ行った留守に、しばらく田舎へ行っていた母親がまた戻って来て、お庄と一緒に留守をすることになった。夏の中ごろに年取った伯母の老病を見舞いに行った母親は、そのころまでも伯母の傍に附いていた。伯母の病気は長い間の腎臓やリュウマチでこの幾年というもの床に就きづめであった。周囲の人たちも介抱に倦《う》んで病人は自分の業《ごう》をはかなんだ。いつ死ぬか解らないその病人の臭い寝所の側に、母親も際限なく附いていられなかった。それに久しく東京で母子《おやこ》ともまごついている母親は、村の表通りを晴れて通ることすら出来なかった。身装《みなり》が見すぼらしいので久しぶりで墓参をするにも、そっと裏山の裾《すそ》を伝って行かなければならなかった。母親はどんなことをしても、広々した東京の方がやはり住みよいと思った。
母親が帰って来ると、父親の近ごろの様子もほぼ解った。父親は本家の方の家の世話をしたり、町で長く公立の病院長をしていて、金を拵《こしら》えて村へ引っ込んでから、間もなく腐骨症の脚を切って死んだ親類の、妾と、独り取り残されたその祖母との家を見たりして日を暮していた。田舎で見聞きして来た厭な出来事を、母親から話を聞かされると、お庄は十一の年に出たばかりの自分の家や周囲の暗い記憶が、また胸に浮んだ。
「あのお祖母《ばあ》さんも、若い時分にどこのものか知れない庭男と私通《くっつ》いて院長のお父さん……つまりお祖母さんの添合《つれあ》いに髪を切られた騒ぎもあったでね。その庭男が癩病筋《らいびょうすじ》だったというこんで院長の脚の病
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