う、それならば、もう少し前にお連れの方と御一緒にお帰りになりましてすよ。」
「そうですか。」と、お庄は考えていた。
「まアお上んなさいまし。」長火鉢の方に坐っていた四十四、五の、これも色の黒い女が奥から声かけた。
「小崎さんは、かれこれもうお宅へお着きの時分でございますよ。」
お庄は何だか嘘のような気がした。
「急に用事が出来たものですからね、今夜もし帰らないようだと家で大変困るんです。」
内儀《かみ》さんはそれぎりほかの方へ気をとられていた。若い女も酸漿を鳴らしはじめた。お庄は叔母から、叔父の上る楼《うち》まで行って突き留めなければ駄目だと言われたことを憶《おも》い出して、しばらく押し問答していた。
「それじゃ念晴しに行ってごらんなさいまし。御案内しますから。」と女は笑いながら言い出した。
「それがいいでしょうよ。花魁《おいらん》の部屋もちっと見ておおきなさいまし。」内儀さんも言った。
お庄は店頭《みせさき》へ出してくれた出花《でばな》も飲まずにまた俥に乗った。
家へ帰ると、叔父はもう着いていた。奥の四畳半で、一ト捫着《もんちゃく》した後で、叔父の羽織がくしゃくしゃになって隅の方に束《つく》ねてあった。叔母は赤い目縁《まぶち》をして、お庄が上って行っても、口も利かなかった。その晩叔父は按摩《あんま》などを取って、宵のうちから寝床へ入った。お庄らも、早く戸締りをして寝かされた。
その翌日の今朝、叔父は早めに社の方へ出て行った。朝飯の時、お庄が洲崎へ迎えに行った話が初めて出て、衆《みんな》は大笑いした。
叔父が出て行くと、叔母はまたせッせと体を動かしていたが、長く続かなかった。涼しいところへ枕を移しては、寝臥《ねそべ》っていた。
お庄は目につかぬほどの石炭の滓《おり》のついた、白い洗濯物に霧を吐きかけては、皺《しわ》を熨《の》しはじめた。雨はじきに霽《あが》って、また暑い日が簾《すだれ》に差して来た。
「お庄ちゃん、私氷が飲みたいがね。」と、叔母は傍から唸《うな》った。
お庄は洗濯ものに押しをしておいて、それから近所の氷屋へ走った。
氷が来た時分に、表から風の吹き通す茶の間の入口の、簾屏風《すだれびょうぶ》の蔭に眠《ね》ていた正雄も、やっと目を覚ましかけて来た。正雄はそのころ、叔父の知っている八重洲河岸《やえすがし》の洋服屋へ行っていた。東京で一番古
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