て互いに健康を祝しあいながら町を歩いたのであった。
 終点へ来たとき、私たちは別の電車を取るべく停留所へ入った。
「神戸は汚《きたな》い町や」雪江は呟いていた。
「汚いことありゃしませんが」桂三郎は言った。
「神戸も初め?」私は雪江にきいた。
「そうですがな」雪江は暗い目をした。
 私は女は誰もそうだという気がした。東京に子供たちを見ている妻も、やっぱりそうであった。
「今度来るとき、おばさんを連れておいんなはれ。おばさんが来られんようでしたら、秀夫さんをおよこしやす。どないにも私が面倒みてあげますよって」彼女はそんなことを言っていた。
「彼らは彼らで、大きくなったら好きなところへ行くだろうよ」
「それあそうや。私も東京へ一度行きます」
 私たちはちょっとのことで、気分のまるで変わった電車のなかに並んで腰かけた。播州人《ばんしゅうじん》らしい乗客の顔を、私は眺めまわしていた。でも言葉は大阪と少しも変わりはなかった。山がだんだんなだらかになって、退屈そうな野や町が、私たちの目に懈《だる》く映った。といってどこに南国らしい森の鬱茂《うつも》も平野の展開も見られなかった。すべてがだらけきっているように見えた。私はこれらの自然から産みだされる人間や文化にさえ、疑いを抱かずにはいられないような気がした。温室に咲いた花のような美しさと脆《もろ》さとをもっているのは彼らではないかと思われた。
 私たちは間もなく須磨の浜辺へおり立っていた。
「この辺は私もじつはあまり案内者の資格がないようです」桂三郎はそんなことを言いながら、渚《なぎさ》の方へ歩いていった。
 美しい砂浜には、玉のような石が敷かれてあった。水がびちょびちょと、それらの小石や砂を洗っていた。青い羅衣《うすもの》をきたような淡路島が、間近に見えた。
「綺麗ですね」などと桂三郎は讃美の声をたてた。
「けどここはまだそんなに綺麗じゃないですよ。舞子が一番綺麗だそうです」
 波に打上げられた海月魚《くらげ》が、硝子が熔けたように砂のうえに死んでいた。その下等動物を、私は初めて見た。その中には二三|疋《びき》の小魚を食っているのもあった。
「そら叔父さん綸《いと》が……」雪江は私に注意した。釣をする人たちによって置かれた綸であった。松原が浜の突角に蒼く煙ってみえた。昔しの歌にあるような長閑《のどか》さと麗《うらら》かさがあった。だがそれはそうたいした美しさでもなかった。その上防波堤へ上がって、砂ぶかい汽車や電車の軌道ぞいの往来へあがってみると、高台の方には、単調な松原のなかに、別荘や病院のあるのが目につくだけで、鉄拐《てっかい》ヶ峰や一の谷もつまらなかった。私は風光の生彩をおびた東海の浜を思いださずにはいられなかった。すべてが頽廃《たいはい》の色を帯びていた。
 私たちはまた電車で舞子の浜まで行ってみた。
 ここの浜も美しかったが、降りてみるほどのことはなかった。
「せっかく来たのやよって、淡路へ渡ってみるといいのや」雪江はパラソルに日をさえながら、飽かず煙波にかすんでみえる島影を眺めていた。
 時間や何かのことが、三人のあいだに評議された。
「とにかく肚《はら》がすいた。何か食べようよ」私はこの辺で漁《と》れる鯛《たい》のうまさなどを想像しながら言った。
 私たちは松の老木が枝を蔓《はびこ》らせている遊園地を、そこここ捜してあるいた。そしてついに大きな家の一つの門をくぐって入っていった。昔しからの古い格を崩さないというような矜《ほこ》りをもっているらしい、もの堅いその家の二階の一室へ、私たちはやがて案内された。
「ここは顕官の泊るところです。有名な家です」桂三郎は縁側の手摺《てすり》にもたれながら言った。淡路がまるで盆石のように真面《まとも》に眺められた。裾の方にある人家の群れも仄《ほの》かに眺められた。平静な水のうえには、帆影が夢のように動いていた。モーターがひっきりなし明石の方へ漕いでいった。
「あれが漁場《りょうば》漁場へ寄って、魚を集めて阪神へ送るのです」桂三郎はそんな話をした。
 やがて女中が高盃《たかつき》に菓子を盛って運んできた。私たちは長閑《のどか》な海を眺めながら、絵葉書などを書いた。
 するうち料理が運ばれた。
「へえ、こんなところで天麩羅《てんぷら》を食うんだね」私はこてこて持ちだされた食物を見ながら言った。
「それああんた、あんたは天麩羅は東京ばかりだと思うておいでなさるからいけません」桂三郎は嗤《わら》った。
 雪江はおいしそうに、静かに箸《はし》を動かしていた。
 紅い血のしたたるような苺《いちご》が、終わりに運ばれた。私はそんな苺を味わったことがなかった。
 私たちはそこを出てから、さらに明石の方へ向かったが、そこは前の二つに比べて一番汚なかった。淡路へわ
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