った。
「それあもう何です……」彼は草の葉をむしっていた。
話題が少し切迫してきたので、二人は深い触れ合いを避けでもするように、ふと身を起こした。
「海岸へ出てみましょうか」桂三郎は言った。
「そうだね」私は応えた。
ひろびろとした道路が、そこにも開けていた。
「ここはこの間釣りに来たところと、また違うね」私は浜辺へ来たときあたりを見まわしながら言った。
沼地などの多い、土地の低い部分を埋めるために、その辺一帯の砂がところどころ刳《えぐ》り取られてあった。砂の崖がいたるところにできていた。釣に来たときよりは、浪がやや荒かった。
「この辺でも海の荒れることがあるのかね」
「それあありますとも。年に決まって一回か二回はね。そしてその時に、刳り取られたこの砂地が均《なら》されるのです」
海岸には、人の影が少しは見えた。
「叔父さんは海は嫌いですか」
「いや、そうでもない。以前は山の方がよかったけれども、今は海が暢気《のんき》でいい。だがあまり荒い浪は嫌いだね」
「そうですか。私は海辺に育ちましたから浪を見るのが大好きですよ。海が荒れると、見にくるのが楽しみです」
「あすこが大阪かね」私は左手の漂渺《ひょうびょう》とした水霧《すいむ》の果てに、虫のように簇《むらが》ってみえる微かな明りを指しながら言った。
「ちがいますがな。大阪はもっともっと先に、微かに火のちらちらしている他《あれ》ですがな」そう言って彼はまた右手の方を指しながら、
「あれが和田岬《わだみさき》です」
「尼《あま》ヶ|崎《さき》から、あすこへ軍兵の押し寄せてくるのが見えるかしら」私は尼ヶ崎の段を思いだしながら言った。
「あれが淡路《あわじ》ですぜ。よくは見えませんでしょうがね」
私は十八年も前に、この温和な海を渡って、九州の温泉へ行ったときのことを思いだした。私は何かにつけてケアレスな青年であったから、そのころのことは主要な印象のほかは、すべて煙のごとく忘れてしまったけれど、その小さい航海のことは唯今のことのように思われていた。その時分私は放縦《ほうしょう》な浪費ずきなやくざもののように、義姉に思われていた。
私はどこへ行っても寂しかった。そして病後の体を抱いて、この辺をむだに放浪していた、そのころの痩せこけた寂しい姿が痛ましく目に浮かんできた。今の桂三郎のような温良な気分は、どこにも見出せなかった。彼のような幸福な人間では、けっしてなかった。
私はその温泉場で長いあいだ世話になっていた人たちのことを想い起こした。
「おきぬさんも、今ならどんなにでもして、あげるよって芳ちゃんにそう言うてあげておくれやすと、そないに言うてやった。一度行ってみてはどうや」義姉はこの間もそんなことを言った。
私はそのおきぬさんの家の庭の泉石を隔てたお亭《ちん》のなかに暮らしていたのであった。私は何だかその土地が懐かしくなってきた。
「せめて須磨明石《すまあかし》まで行ってみるかな」私は呟《つぶや》いた。
「は、叔父さんがお仕事がおすみでしたら……」桂三郎は応えた。
私たちは月見草などの蓬々《ぼうぼう》と浜風に吹かれている砂丘から砂丘を越えて、帰路についた。六甲の山が、青く目の前に聳《そび》えていた。
雪江との約束を果たすべく、私は一日須磨明石の方へ遊びにいった。もちろんこの辺の名所にはすべて厭な臭味がついているようで、それ以上見たいとは思わなかったし、妻や子供たちの病後も気にかかっていたので、帰りが急がれてはいたが……。
で、わたしは気忙《きぜわ》しい思いで、朝早く停留所へ行った。
その日も桂三郎は大阪の方へ出勤するはずであったが、私は彼をも誘った。
「二人いっしょでなくちゃ困るぜ。桂さんもぜひおいで」私は言った。
「じゃ私も行きます」桂三郎も素直に応じた。
「だが会社の方へ悪いようだったら」
「それは叔父さん、いいんです」
私は支度を急がせた。
雪江は鏡台に向かって顔を作っていたが、やがて派手な晴衣を引っぴろげたまま、隣の家へ留守を頼みに行ったりした。ちょうど女中が見つかったところだったが、まだ来ていなかった。
「叔父さんのお蔭で、二人いっしょに遊びに出られますのえ。今日が新婚旅行のようなもんだっせ」雪江はいそいそしながら、帯をしめていた。顔にはほんのり白粉《おしろい》がはかれてあった。
「ほう、綺麗《きれい》になったね」私はからかった。
「そんな着物はいっこう似あわん」桂三郎はちょっと顔を紅くしながら呟いた。
「いくらおめかしをしてもあかん体や」彼はそうも言った。
私たちはすぐに電車のなかにいた。そして少し話に耽っているうちに、神戸へ来ていた。山と海と迫《せま》ったところに細長く展《ひろ》がった神戸の町を私はふたたび見た。二三日前に私はここに旧友をたずね
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