めかみ》のところに即効紙《そっこうし》など貼《は》って、取り散《みだ》した風をしていた。
「それでなけア、東京でどこか奉公にでも入るか……。」と新吉はいつにない冷やかな態度で、「私《あっし》のところにいるのは、いつまでいても、それは一向かまわないようなもんだがね。小野さんなんぞと違って、宅《うち》は商売屋だもんだで、何だかわけの解らない女がいるなんぞと思われても、あまり体裁がよくねえしね……。」
 新吉はいつからか、言おうと思っていることをさらけ出そうとした。
 ずっと離れて、薄暗いところで、針仕事をしていたお作は、折々目を挙げて、二人の顔を見た。
 お国は嶮相《けんそう》な蒼い顔をして、火鉢の側に坐っていたが、しばらくすると、「え、それは私だって考えているんです。」
 新吉は、まだ一つ二つ自分の方の都合をならべた。お国はじっと考え込んでいたが、大分経ってから、莨を喫《ふか》し出すと一緒に、
「御心配入りません。私のことはどっちへ転んだって、体一つですから……。」と淋しく笑った。
「そうなんだ。……女てものは重宝なもんだからね。その代りどこへ行くということが決まれば、私《あっし》もそれは出来るだけのことはするつもりだから。」
 お国は黙って、釵《かんざし》で、自棄《やけ》に頭を掻いていた。晩方飯が済むと、お国は急に押入れを開けて、行李の中を掻き廻していたが、帯を締め直して、羽織を着替えると、二人に、更《あらた》まった挨拶をして、出て行こうとした。
 その様子が、ひどく落ち着き払っていたので、新吉も多少不安を感じ出した。
「どこへ行くね。」と訊いて見たが、お国は、「え、ちょいと。」と言ったきり、ふいと出て行った。
 新吉もお作も、後で口も利かなかった。

     三十五

 高ッ調子のお国がいなくなると、宅《うち》は水の退《ひ》いたようにケソリとして来た。お作は場所塞《ばしょふさ》げの厄介物を攘《はら》った気でいたが、新吉は何となく寂しそうな顔をしていた。お作に対する物の言いぶりにも、妙に角が立って来た。お国の行き先について、多少の不安もあったので、帰って来るのを、心待ちに待ちもした。
 が、翌日も、お国は帰らなかった。新吉は帳場にばかり坐り込んで、往来に差す人の影に、鋭い目を配っていた。たまに奥へ入って来ても、不愉快そうに顔を顰《しか》めて、ろくろく坐りもしなかった。
 お作も急に張合いがなくなって来た。新吉の顔を見るのも切ないようで、出来るだけ側に寄らぬようにした。昼飯の時も、黙って給仕をして、黙って不味《まず》ッぽらしく箸を取った。新吉がふいと起ってしまうと、何ということなし、ただ涙が出て来た。二時ごろに、お作はちょくちょく着に着替えて、出にくそうに店へ出て来た。
「あの、ちょっと小石川へ行って来てもようございますか。」とおずおず言うと、新吉はジロリとその姿を見た。
「何か用かね。」
 お作ははっきり返辞も出来なかった。
 出ては見たが、何となく足が重かった。叔父に厭なことを聞かすのも、気が進まない。叔父にいろいろ訊かれるのも、厭であった。叔父のところへ行けないとすると、さしあたりどこへ行くという的《あて》もない。お作はただフラフラと歩いた。
 表町を離れると、そこは激しい往来であった。外は大分春らしい陽気になって、日の光も目眩《まぶ》しいくらいであった。お作の目には、坂を降りて行く、幾組かの女学生の姿が、いかにも快活そうに見えた。何を考えるともなく、歩《あし》が自然《ひとりで》に反対の方向に嚮《む》いていたことに気がつくと、急に四辻《よつつじ》の角に立ち停って四下《あたり》を見廻した。
 何だか、もと奉公していた家《うち》がなつかしいような気がした。始終|拭《ふ》き掃除《そうじ》をしていた部屋部屋のちんまり[#「ちんまり」に傍点]した様子や、手がけた台所の模様が、目に浮んだ。どこかに中国訛《ちゅうごくなま》りのある、優しい夫人の声や目が憶い出された。出る時、赤子であった男の子も、もう大きくなったろうと思うと、その成人ぶりも見たくなった。
 お作は柳町まで来て、最中《もなか》の折を一つ買った。そうしてそれを風呂敷に包んで一端《いっぱし》何か酬《むく》いられたような心持で、元気よく行《ある》き出した。
 西片町|界隈《かいわい》は、古いお馴染《なじ》みの町である。この区域の空気は一体に明るいような気がする。お作は※[#「木+要」、第4水準2−15−13、43−下段−3]《かなめ》の垣根際《かきねぎわ》を行《ある》いている幼稚園の生徒の姿にも、一種のなつかしさを覚えた。ここの桜の散るころの、やるせないような思いも、胸に湧《わ》いて来た。
 家は松木といって、通りを少し左へ入ったところである。門からじきに格子戸で、庭には低い立
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