ち木の頂が、スクスクと新しい塀越《へいご》しに見られる。お作は以前愛された旧主の門まで来て、ちょっと躊躇した。

     三十六

 門のうちに、綺麗な腕車《くるま》が一台|供待《ともま》ちをしていた。
 お作はこんもりした杜松《ひば》の陰を脱けて、湯殿の横からコークス殻を敷いた水口へ出た。障子の蔭からそっと台所を窺《のぞ》くと、誰もいなかったが、台所の模様はいくらか変っていた。瓦斯《ガス》など引いて、西洋料理の道具などもコテコテ並べてあった。自分のいたころから見ると、どこか豊かそうに見えた。
 奥から子供を愛《あや》している女中の声が洩れて来た。夫人が誰かと話している声も聞えた。客は女らしい、華《はな》やかな笑い声もするようである。
 しばらくすると、束髪に花簪《はなかんざし》を挿して、きちんとした姿《なり》をした十八、九の女が、ツカツカと出て来た。赤い盆を手に持っていたが、お作の姿《なり》を見ると、丸い目をクルクルさせて、「どなた?」と低声《こごえ》で訊いた。
「奥様いらっしゃいますか。」とお作は赤い顔をして言った。
「え、いらっしゃいますけれど……。」
「別に用はないんですけれど、前《ぜん》におりましたお作が伺ったと、そうおっしゃって……。」
「ハ、さよでございますか。」と女中はジロジロお作の様子を見たが、盆を拭いて、それに小さいコップを二つ載せて、奥へ引っ込んだ。
 しばらくすると、二歳《ふたつ》になる子が、片言交《かたことまじ》りに何やら言う声がする。咲《え》み割れるような、今の女中の笑い声が揺れて来る。その笑い声には、何の濁りも蟠《わだかま》りもなかった。お作はこの暖かい邸で過した、三年の静かな生活を憶い出した。
 奥様は急に出て来なかった。大分経ってから、女中が出て来て、「あの、こっちへお上んなさいな。」
 お作は女中部屋へ上った。女中部屋の窓の障子のところに、でこぼこの鏡が立てかけてあった。白い前垂や羽織が壁にかかっている。しばらくすると、夫人がちょっと顔を出した。痩《や》せぎすな、顔の淋しい女で、このごろことに毛が抜け上ったように思う。お作は平たくなってお辞儀をした。
「このごろはどうですね。商売屋じゃ、なかなか気骨が折れるだろうね。それに、お前何だか顔色が悪いようじゃないか。病気でもおしかい。」と夫人は詞《ことば》をかけた。
「え……。」と言ってお作は早産のことなど話そうとしたが、夫人は気忙しそうに、「マアゆっくり遊んでおいで。」と言い棄てて奥へ入った。
 しばらく女中と二人で、子供をあっちへ取りこっちへ取りして、愛《あや》していた。子供は乳色の顔をして、よく肥っていた。先月中小田原の方へ行っていて、自分も伴《とも》をしていたことなぞ、お竹は気爽《きさく》に話し出した。話は罪のないことばかりで、小田原の海がどうだったとか、梅園がこうだとか、どこのお嬢さまが遊びに来て面白かったとか……お作は浮《うわ》の空で聞いていた。
 外へ出ると、そこらの庭の木立ちに、夕靄《ゆうもや》が被《かか》っていた。お作は新坂をトボトボと小石川の方へ降りて行った。

     三十七

 帰って見ると、店が何だか紛擾《ごたごた》していた。いつもよく来る、赭《あか》ちゃけた髪の毛の長く伸びた、目の小さい、鼻のひしゃげた汚い男が、跣足《はだし》のまま突っ立って、コップ酒を呷《あお》りながら、何やら大声で怒鳴っていた。小僧たちの顔を見ると、一様に不安そうな目色をして、酔漢《よっぱらい》を見守っている。奥の方でも何だかごてついているらしい。上り口に蓮葉な脱ぎ方をしてある、籐表《とうおもて》の下駄は、お国のであった。
「お国さんが帰って?」と小僧に訊くと、小僧は「今帰りましたよ。」と胡散《うさん》くさい目容《めつき》でお作を見た。
 そっと上って見ると、新吉は長火鉢のところに立て膝をして莨を吸っていた。お国は奥の押入れの前に、行李の蓋《ふた》を取って、これも片膝を立てて、目に殺気を帯びていた。お作の影が差しても、二人は見て見ぬ振りをしている。
 新吉はポンポンと煙管を敲《はた》いて、「小野さんに、それじゃ私《あっし》が済まねえがね……。」と溜息を吐《つ》いた。
「新さんの知ったことじゃないわ。」とお国は赤い胴着のような物を畳んでいた。髪が昨日よりも一層|強《きつ》い紊《みだ》れ方で、立てた膝のあたりから、友禅の腰巻きなどが媚《なま》めかしく零《こぼ》れていた。
「私ゃ私の行きどころへ行くんですもの。誰が何と言うもんですか。」と凄《すさま》じい鼻息であった。
 お作はぼんやり入口に突っ立っていた。
「それも、東京の内なら、私《あっし》も文句は言わねえが、何も千葉くんだりへ行かねえだって……。」と新吉も少し激したような調子で、「千葉は何だね。」
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