。酒の割法《わりかた》が間違ったり、高い醤油《したじ》を安く売ることなどはめずらしくなかった。帳面の調べや、得意先の様子なども、一向に呑み込めなかった。呑み込もうとする気合いも見えなかった。
 そんなことがいくたびも重なると、新吉はぷりぷりして怒った。
「此奴《こいつ》はよっぽど間抜けだな。商人の内儀《かみ》さんが、そんなこッてどうするんだ。三度三度の飯をどこへ食ってやがんだ。」
 優しい新吉の口からこういう言葉が出るようになった。
 お作は赤い顔をして、ただニヤニヤと笑っている。
「ちょッ、しようがねえな。」と新吉は憤《じ》れったそうに、顔中を曇らせる。「己《おら》ア飛んだ者を背負い込んじゃったい。全体和泉屋も和泉屋じゃねえか。友達がいに、少しは何とか目口の明いた女房を世話しるがいいや。媒人口《なこうどぐち》ばかり利きあがって……これじゃ人の足元を見て、押附《おっつ》けものをしたようなもんだ。」とブツブツ零《こぼ》している。
 お作は、泣面《べそ》かきそうな顔をして、術なげにうつむいてしまう。
「明日《あした》から引っ込んでるがいい。店へなんぞ出られると、かえって家業の邪魔になる。奥でおん襤褸《ぼろ》でも綴《つづ》くッてる方がまだしも優《まし》だ。このくらいのことが勤まらねえようじゃ、どこへ行ったって勤まりそうなわけがない。それでよくお屋敷の奉公が勤まったもんだ。」
 罵《ののし》る新吉の舌には、毒と熱とがあった。
 お作の目からはポロポロと熱い涙が零れた。
「私は莫迦ですから……。」とおどおどする。
 新吉は急に黙ってしまう。そうしてフカフカと莨を喫《ふか》す。筋張ったような顔が蒼くなって、目が酔漢《よっぱらい》のように据わっている。口を利く張合いも抜けてしまうのだが、胸の中はやっぱり煮えている。
 こう黙られると、お作の心はますますおどおどする。
「これから精々気をつけますから……。」と顫《ふる》え声で詫《わ》びるのであるが、その言《ことば》には自信も決心もなかった。ただ恐怖があるばかりであった。

     十一

 こんなことのあった後では、お作はきっと奥の六畳の箪笥の前に坐り込んで、針仕事を始める。半日でも一日でも、新吉が口を利けば、例の目尻や口元に小皺《こじわ》を寄せた。人のよさそうな笑顔を向けながら、素直に受答えをするほか、自分からは熟《う》んだ柿が潰《つぶ》れたとも言い出せなかった。
 これまで親の膝下《ひざもと》にいた時も、三年の間西片町のある官吏の屋敷に奉公していた時も、ただ自分の出来るだけのことを正直に、真面目にと勤めていればそれでよかった。親からは女らしい娘だと讃《ほ》められ、主人からは気立てのよい、素直な女だと言って可愛がられた。この家へ片づくことになって、暇を貰う時も、お前ならばきっと亭主を粗末にしないだろう。世帯持ちもよかろう。亭主に思われるに決まっていると、旦那様《だんなさま》から分に過ぎた御祝儀を頂いた。夫人《おくさま》からも半襟《はんえり》や簪《かんざし》などを頂いて、門の外まで見送られたくらいであった。新吉に頭から誹謗《けな》されると、お作の心はドマドマして、何が何だかさっぱり解らなくなって来る。ただ威張って見せるのであろうとも思われる。わざと喧《やかま》しく言って脅《おどか》して見るのだろうという気もする。あれくらいなことは、今日は失敗《しくじ》っても、二度三度と慣れて来れば造作なく出来そうにも思える。どちらにしても、あの人の気の短いのと、怒りっぽいのは婆やが出てゆく時、そっと注意しておいてくれたのでも解っている――と、お作はこういう心持で、深く気にも留めなかった。怒られる時は、どうなるのかとはらはらして、胸が一杯になって来るが、それもその時きりで、不安の雲はあっても、自分を悲観するほどではなかった。
 それでも針の手を休めながら、折々|溜息《ためいき》を吐《つ》くことなぞある。独り長火鉢の横に坐って、する仕事のない静かな昼間なぞは、自然《ひとりで》に涙の零れることもあった。いっそ宅《うち》へ帰って、旧《もと》の屋敷へ奉公した方が気楽だなぞと考えることもあった。その時分から、お作はよく鏡に向った。四下《あたり》に人の影が見えぬと、そっと鏡の被《おお》いを取って、自分の姿を映して見た。髪を直して、顔へ水白粉なぞ塗って、しばらくそこにうっとりしていた。そうして昨日のように思う婚礼当時のことや、それから半年余りの楽しかった夢を繰り返していた。自分の姿や、陽気な華やかなその晩の光景も、ありあり目に浮んで来る。――今ではそうした影も漂うていない。憶い出すと泣き出したいほど情なくなって来る。
 店で帳合いをしていた新吉が、不意に「アア。」と溜息を吐いて、これもつまらなさそうな顔をして奥を窺《のぞ》
前へ 次へ
全25ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング