口を利き出した。
「婆さん、この間から話しておいたようなわけなんだから、私《あっし》のところはもういいよ。婆さんの都合で、暇を取るのはいつでもかまわねえから……。」
婆さんは味噌汁の椀《わん》を下に置くと、「ハイハイ。」と二度ばかり頷《うなず》いた。
「でも今日はまあ、何や彼や後片づけもございますし、あなたもおいでになった早々から水弄《みずいじ》りも何でしょうからね……。」とお作に笑顔を向けた。
「己《おれ》ンとこアそんなこと言ってる身分じゃねえ。今日からでも働いてもらわなけれアなんねえ。」と新吉は愛想もなく言った。
「ハアどうぞ!」とお作は低声《こごえ》で言った。
「オイ増蔵《ますぞう》、何をぼんやり見ているんだ。サッサと飯を食っちまいねえ。」と新吉はプイと起った。
九
午前のうち、新吉は二、三度外へ出てはせかせかと帰って来た。小僧と同じように塩や、木端《こっぱ》を得意先へ配って歩いた。岡持《おかもち》を肩へかけて、少しばかりの醤油《しょうゆ》や酒をも持ち廻った。店が空《あ》きそうになると、「ちょッしようがないな。」と舌打ちして奥を見込み、「オイ、店が空くから出ていてくんな。」とお作に声をかけた。お作は顔や頭髪《あたま》を気にしながら、きまり悪そうに帳場のところへ来て坐った。
新吉は昨夜《ゆうべ》来たばかりの花嫁を捉《とら》えて、醤油や酒のよし悪《あ》し、値段などを教え始めた。
「この辺は貧乏人が多いんだから、皆《みんな》細かい商いばかりだ。お客は七、八分労働者なんだから、酒の小売りが一番多いのさ。店頭《みせさき》へ来て、桝飲《ますの》みをきめ込む輩《てあい》も、日に二人や三人はあるんだから、そういう奴が飛び込んだら、ここの呑口《のみぐち》をこう捻《ひね》って、桝ごと突き出してやるんさ。彼奴《やつ》ら撮《つま》み塩か何かで、グイグイ引っかけて去《い》かア。宅《うち》は新店だから、帳面のほか貸しは一切しねえという極《き》めなんだ。」とそれから売揚げのつけ方なども、一ト通り口早に教えた。お作はただニヤニヤと笑っていた。解ったのか、解らぬのか、新吉はもどかしく思った。で、ろくすっぽう、莨も吸わず、岡持を担《かつ》ぎ出して、また出て行ってしまう。
晩方少し手隙《てすき》になってから、新吉は質素《じみ》な晴れ着を着て、古い鳥打帽を被り、店をお作と小僧とに托《あず》けて、和泉屋へ行くと言って宅《うち》を出た。
お作は後でほっとしていた。優しい顔に似合わず、気象はなかなか烈《はげ》しいように思われた。無口なようで、何でも彼でもさらけ出すところが、男らしいようにも思われた。昨夜《ゆうべ》の羽織や袴を畳んで箪笥にしまい込もうとした時、「其奴《そいつ》は小野が、余所《よそ》から借りて来てくれたんだから……。」と低声《こごえ》に言って風呂敷を出して、自分で叮寧に包んだ、虚栄《みえ》も人前もない様子が、何となく頼もしいような気もした。初めての自分には、胸がドキリとするほど荒い言《ことば》をかけることもあるが、心持は空竹《からたけ》を割ったような男だとも思った。この店も二、三年の中には、グッと手広くするつもりだから……と、昨夜寝てから話したことなども憶《おも》い出された。自分の宅《うち》の一ツも建てたり、千や二千の金の出来るまでは、目を瞑《つぶ》って辛抱してくれろと言った言《ことば》を考え出すと、お作はただ思いがけないような切ないような気がした。この五、六日の不安と動揺とが、懈《だる》い体と一緒に熔《とろ》け合って、嬉しいような、はかないような思いが、胸一杯に漂うていた。
お作は机に肱《ひじ》を突いて、うっとりと広い新開の町を眺《なが》めた。淡《うす》い冬の日は折々曇って、寂しい影が一体に行《ゆ》き遍《わた》っていた。凍《かじか》んだような人の姿が夢のように、往来《ゆきき》している。お作の目は潤《うる》んでいた。まだはっきりした印象もない新吉の顔が、何《なん》かしらぼんやりした輪のような物の中から見えるようであった。
十
幸福な月日は、滑るように過ぎ去った。新吉は結婚後一層家業に精が出た。その働きぶりには以前に比して、いくらか用意とか思慮とかいう余裕《ゆとり》が出来て来た。小僧を使うこと、仕入や得意を作ることも巧みになった。体を動かすことが、比較的少くなった代りに、多く頭脳《あたま》を使うような傾きもあった。
けれど、お作は何の役にも立たなかった。気立てが優しいのと、起居《たちい》がしとやかなのと、物質上の欲望が少いのと、ただそれだけがこの女の長所《とりえ》だということが、いよいよ明らかになって来た。新吉が出てしまうと、お作は良人《おっと》にいいつかったことのほか、何の気働きも機転も利かすことが出来なかった
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