れ、陽気な笑い声や、話し声が一時に入り乱れて、猪口《ちょく》が盛んにそちこちへ飛んだ。
「サア、お役は済んだ。これから飲むんだ。」和泉屋が言い出した。
 新吉も席を離れて、「私《あっし》のとこもまだ真《ほん》の取着《とっつ》き身上《しんしょう》で、御馳走と言っちゃ何もありませんが、酒だけアたくさんありますから、どうかマア御ゆっくり。」
「イヤなかなか御丁重な御馳走で……。」と兄貴は大きい掌《てのひら》に猪口を載せて、莫迦叮寧なお辞儀をして、新吉に差した。「私《わたし》は田舎者で、何にも知らねえもんでござえますが、何分どうぞよろしく。」
「イヤ私《あっし》こそ。」と新吉は押し戴《いただ》いて、「何《なん》しろまだ世帯を持ったばかりでして……それに私アこっちには親戚《みより》と言っては一人もねえもんですから、これでなかなか心細いです。マア一つ皆さんのお心添えで、一人前の商人になるまでは、真黒になって稼ぐつもりです。」
「とんでもないこって……。」と兄貴は返盃《へんぱい》を両手に受け取って、「こちとらと違えまして、伎倆《はたらき》がおありなさるから……。」
「オイ新さん、そう銭儲《ぜにもう》けの話ばかりしていねえで、ちょっとお飲《や》りよ。」と小野は向う側から高調子で声かけた。
 新吉は罰《ばつ》が悪そうに振り顧《む》いて、淋しい顔に笑《え》みを浮べた。「笑談《じょうだん》じゃねえ。明日から頭数が一人殖えるんだ。うっかりしちゃいらんねえ。」と低声《こごえ》で言った。
「イヤ、世帯持ちはその心がけが肝腎です。」と和泉屋は、叔母とシミジミ何やら、談《はな》していたが、この時口を容《い》れた。「ここの家へ来た嫁さんは何しろ幸《しあわ》せですよ。男ッぷりはよし、伎倆《はたらき》はあるしね。」
「そうでございますとも。」と叔母は楊枝《ようじ》で金歯を弄《せせ》りながら、愛想笑いをした。
「これでお内儀さんを可愛がれア申し分なしだ。」と誰やらが混《ま》ぜッ交《かえ》した。
 銚子が後から後からと運ばれた。話し声がいよいよ高調子になって、狭い座敷には、酒の香と莨《たばこ》の煙とが、一杯に漂うた。
「花嫁さんはどうしたどうした。」と誰やらが不平そうに喚《わめ》いた。
 和泉屋が次の間へ行って見た。お作は何やら糸織りの小袖に着換えて、派手な花簪《はなかんざし》を挿《さ》し、長火鉢の前に、灯影《ひかげ》に背《そむ》いて、うつむいたままぽつねんと坐っていた。
「サアお作さん、あすこへ出てお酌しなけアいけない。」
 お作は顔を赧《あか》らめ、締りのない口元に皺《しわ》を寄せて笑った。

     八

 小野が少し食べ酔って管を捲《ま》いたくらいで、九時過ぎに一同無事に引き揚げた。叔母と兄貴とは、紛擾《ごたごた》のなかで、長たらしく挨拶していたが、出る時兄貴の足はふらついていた。新吉側の友人は、ひとしきり飲み直してから暇《いとま》を告げた。
「アア、人の婚礼でああ騒ぐ奴《やつ》の気が知れねえ。」というように、新吉は酔《え》いの退《ひ》いた蒼い顔をしてグッタリと床に就いた。
 明朝《あした》目を覚ますと、お作はもう起きていた。枕頭《まくらもと》には綺麗に火入れの灰を均《なら》した莨盆と、折り目の崩《くず》れぬ新聞が置いてあった。暁からやや雨が降ったと見えて、軽い雨滴《あまだれ》の音が、眠りを貪《むさぼ》った頭に心持よく聞えた。豆屋の鈴の音も湿り気を含んでいた。
 何だか今朝から不時な荷物を背負わされたような心持もするが、店を持った時も同じ不安のあったことを思うと、ただ先が少し暗いばかりで、暗い中にも光明はあった。床を離れて茶の間へ出ようとすると、ひょっこりお作と出会った。お作は瓦斯糸織《ガスいとお》りの不断着に赤い襷《たすき》をかけて、顔は下手につけた白粉《おしろい》が斑《まだら》づくっていた。
「オヤ。」と言って赤い顔をうつむいてしまったが、新吉はにっこりともしないで、そのまま店へ出た。店には近所の貧乏町から女の子供が一人、赤子を負《おぶ》った四十ばかりの萎《しな》びた爺《おやじ》が一人、炭や味噌《みそ》を買いに来ていた。
 新吉は小僧と一緒に、打って変った愛想のよい顔をして元気よく商《あきな》いをした。
 朝飯の時、初めてお作の顔を熟視することが出来た。狭い食卓に、昨夜《ゆうべ》の残りの御馳走などをならべて、差し向いで箸《はし》を取ったが、お作は折々目をあげて新吉の顔を見た。新吉も飯を盛る横顔をじっと瞶《みつ》めた。寸法の詰った丸味のある、鼻の小さい顔で額も迫っていた。指節《ゆびふし》の短い手に何やら石入りの指環《ゆびわ》を嵌《は》めていた。飯が済むと、新吉は急に気忙しそうな様子で、二、三服莨を吸っていたが、やがて台所口で飯を食っている傭い婆さんに大声で
前へ 次へ
全25ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング