を脱《と》って、コートの前を外《はず》した。頬が寒い風に逢《あ》って来たので紅味《あかみ》を差して、湿《うる》みを持った目が美しく輝いた。が、どことなく恐怖を帯びている。唇の色も淡《うす》く、紊《ほつ》れ毛もそそけていた。
「どうしたんです。」新吉は不安らしくその顔を瞶《みつ》めたが、じきに視線を外《そら》して、「マアお上んなさい。こんな汚いところで、坐るところもありゃしません。それに嚊《かか》はいませんし、ずっと、男世帯で、気味が悪いですけれど、マア奥へお通んなさい。」
「いいえ、どう致しまして……。」女はにっこり笑って、そっちこっち店を見廻した。
「真実《ほんとう》に景気のよさそうな店ですこと。心持のいいほど品物が入っているわ。」
「いいえ、場所が場所だから、てんでお話になりゃしません。」
 新吉は奥へ行って、蒲団を長火鉢の前へ敷きなどして、「サアどうぞ……。」と声かけた。
「お忙《せわ》しいところ、どうも済みませんね。」とお国はコートを脱いで、奥へ通ると、「どうもしばらく……。」と更《あらた》まって、お辞儀をして、ジロジロ四下《あたり》を見廻した。
「随分きちんとしていますわね。それに何から何まで揃《そろ》って、小野なんざとても敵《かな》やしません。」と包みの中から菓子を出して、片隅へ推しやると、低声《こごえ》で何やら言っていた。
 新吉は困ったような顔をして、「そうですかい。」と頭を掻きながら、お辞儀をした。
「商人も店の一つも持つようでなくちゃ駄目ね。堅い商売してるほど確かなことはありゃしないんですからね。」
 新吉は微温《ぬる》い茶を汲《く》んで出しながら、「私《あたし》なんざ駄目です。小野君のように、体に楽をしていて金を儲《も》ける伎倆《はたらき》はねえんだから。」
「でもメキメキ仕揚げるじゃありませんか。前に伺った時と店の様子がすっかり変ったわ。小野なんざアヤフヤで駄目です。」と言って、女は落胆《がっかり》したように口を噤《つぐ》んだ。顔の紅味がいつか褪《ひ》いて蒼《あお》くなっていた。

     十九

 お国はしばらくすると、きまり悪そうに、昨日の朝、小野が拘引されたという、不意の出来事を話し出した。その前の晩に、夫婦で不動の縁日に行って、あちこち歩いて、買物をしたり、蕎麦《そば》を食べたりして、疲れて遅く帰って来たことから、翌日《あした》朝|
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