潰《つぶ》れたとも言い出せなかった。
これまで親の膝下《ひざもと》にいた時も、三年の間西片町のある官吏の屋敷に奉公していた時も、ただ自分の出来るだけのことを正直に、真面目にと勤めていればそれでよかった。親からは女らしい娘だと讃《ほ》められ、主人からは気立てのよい、素直な女だと言って可愛がられた。この家へ片づくことになって、暇を貰う時も、お前ならばきっと亭主を粗末にしないだろう。世帯持ちもよかろう。亭主に思われるに決まっていると、旦那様《だんなさま》から分に過ぎた御祝儀を頂いた。夫人《おくさま》からも半襟《はんえり》や簪《かんざし》などを頂いて、門の外まで見送られたくらいであった。新吉に頭から誹謗《けな》されると、お作の心はドマドマして、何が何だかさっぱり解らなくなって来る。ただ威張って見せるのであろうとも思われる。わざと喧《やかま》しく言って脅《おどか》して見るのだろうという気もする。あれくらいなことは、今日は失敗《しくじ》っても、二度三度と慣れて来れば造作なく出来そうにも思える。どちらにしても、あの人の気の短いのと、怒りっぽいのは婆やが出てゆく時、そっと注意しておいてくれたのでも解っている――と、お作はこういう心持で、深く気にも留めなかった。怒られる時は、どうなるのかとはらはらして、胸が一杯になって来るが、それもその時きりで、不安の雲はあっても、自分を悲観するほどではなかった。
それでも針の手を休めながら、折々|溜息《ためいき》を吐《つ》くことなぞある。独り長火鉢の横に坐って、する仕事のない静かな昼間なぞは、自然《ひとりで》に涙の零れることもあった。いっそ宅《うち》へ帰って、旧《もと》の屋敷へ奉公した方が気楽だなぞと考えることもあった。その時分から、お作はよく鏡に向った。四下《あたり》に人の影が見えぬと、そっと鏡の被《おお》いを取って、自分の姿を映して見た。髪を直して、顔へ水白粉なぞ塗って、しばらくそこにうっとりしていた。そうして昨日のように思う婚礼当時のことや、それから半年余りの楽しかった夢を繰り返していた。自分の姿や、陽気な華やかなその晩の光景も、ありあり目に浮んで来る。――今ではそうした影も漂うていない。憶い出すと泣き出したいほど情なくなって来る。
店で帳合いをしていた新吉が、不意に「アア。」と溜息を吐いて、これもつまらなさそうな顔をして奥を窺《のぞ》
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