きに来る。お作は赤い顔をして、急いで鏡に被いをしてしまう。
「オイ、茶でも淹《い》れないか。」と新吉はむずかしい顔をして、後へ引き返す。
 長火鉢の傍で一緒になると、二人は妙に黙り込んでしまう。長火鉢には火が消えて、鉄瓶が冷たくなっている。

     十二

 お作は妙におどついて、にわかに台所から消し炭を持って来て、星のような炭団《たどん》の火を拾いあげては、折々新吉の顔色を候《うかが》っていた。
「憤《じ》れったいな。」新吉は優しい舌鼓《したうち》をして、火箸を引っ奪《たく》るように取ると、自分でフウフウ言いながら、火を起し始めた。
「一日何をしているんだな。お前なぞ飼っておくより、猫の子飼っておく方が、どのくらい気が利いてるか知れやしねえ。」と戯談《じょうだん》のように言う。
 お作は相変らずニヤニヤと笑って、じっと火の起るのを瞶《みつ》めている。
 新吉は熱《ほて》った顔を両手で撫《な》でて、「お前なんざ、真実《ほんとう》に苦労というものをして見ねえんだから駄目だ。己《おれ》なんざ、何《なん》しろ十四の時から新川へ奉公して、十一年間|苦役《こきつか》われて来たんだ。食い物もろくに食わずに、土間に立詰めだ。指頭《ゆびさき》の千断《ちぎ》れるような寒中、炭を挽《ひ》かされる時なんざ、真実《ほんと》に泣いっちまうぜ。」
 お作は皮膚の弛《ゆる》んだ口元に皺《しわ》を寄せて、ニヤリと笑う。
「これから楽すれやいいじゃありませんか。」
「戯談《じょうだん》じゃねえ。」新吉は吐き出すように言う。「これからが苦労なんだ。今まではただ体を動《いご》かせるばかりで辛抱さえしていれア、それでよかったんだが、自分で一軒の店を張って行くことになって見るてえと、そうは行かねえ。気苦労が大したもんだ。」
「その代り楽しみもあるでしょう。」
「どういう楽しみがあるね。」と新吉は目を丸くした。
「楽しみてえところへは、まだまだ行かねえ。そこまで漕ぎつけるのが大抵のことじゃありゃしねえ。それには内儀さんもしっかりしていてくれなけアならねえ。……それア己はやる。きっとやって見せる。転《ころ》んでもただは起きねえ。けど、お前はどうだ。お前は三度三度無駄飯を食って、毎日毎日モゾクサしてるばかしじゃねえか。だから俺《おれ》は働くにも張合いがねえ。厭になっちまう。」と新吉はウンザリした顔をする。

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