ぬ氣の小いお大は、氣が氣でない。が金《かね》は其きり涕汁《はな》も引かけない。處へ松公は段々お大が鼻について、始終氣のない素振を見せる。お大の荒《すさ》み出した感情は益《ますま》す荒《すさ》むばかりだ。
松公は此《この》四五日、姿も見せない。お大は頭腦《あたま》も體も燃えるやうなので、宅《うち》に熟《じつ》としてゐる瀬はなく、毎日ぶら/\と其處《そこ》ら中|彷徨《うろつ》きまはつて、妄濫《むやみやたら》と行逢ふ人に突かゝつて喧嘩を吹《ふつ》かけて居る。
丸山の下の横丁まで來ると、其角《そのかど》を曲る出前持の松公に逢つた。松公は蕎麥《そば》の出前を、ウンと肩の上へ積上げて、片手に傘を翳《さ》して居たが、女の姿を見て見ぬ振《ふり》をして行過ぎやうとする。
『ずるいよお前さんは……。』とお大は叫びながら、轉げさうに寄つて來て、
『此人は眞實《ほんとう》に薄情だよ。』と掴《つか》みかゝりさうにする。
男はヒヨイと立停《たちどま》つて、ニヤ/\笑ひながら、『何をするんだ、危《あぶね》えな。』
『危えも糞もあつたものか。サア此から私の宅《うち》までお出で。來なけや引張つて行つてやるから。』
『笑談《じやうだん》ぢやない。用があるなら、後で行くから……え。眞實《ほんとう》だ。急ぎなんだから、勘辨しておくんねえ。』
『そんなら私が從《つ》いて行つたつて可《い》いだらう。そして歸《かへり》に引張つて行くから。』
『其樣《そん》なに爲《し》なくたつて、逃げも隱れもしやしねえ。』と松公は何處迄《どこまで》も素直に出て、『眞實《ほんとう》に惡かつたよ。だけど、二三日體が惡くて、店へも出なかつたんだから、爲方《しかた》がねえぢやねえか。』
『嘘をお吐《つ》きでないよ。』
『嘘なもんか。實際だよ。』と松公は獨《ひとり》で笑つて、『第一|己《おれ》は金さんに濟まないと云ふ、其も有るからね。が、孰《どつち》にしても行く。今夜|必然《きつと》行く。』と胡散《うさん》くさい目色《めつき》をして、女を見下《みおろ》す。
『當《あて》になるものか。』と女は鼻で笑つて、『お前さんの口前《くちまへ》の巧いにも惘《あき》れるよ。』
『アレ、彼樣《あん》なことを言つてら。ぢや好《い》いや。然《さ》う思つてるが可《い》いや。』
『莫迦《ばか》にしてるよ。』と女は※[#「弗+色」、第3水準1−90−60]然《むき》になつて、『お大姐さんを瞞《だま》して見やがれ、唯は置かねえから。』
松公は相渝《あひかは》らずニヤ/\してゐたが、此女の毒口にかゝつては、堪らぬことを知つてゐるので、
『アヽ好《い》いよ、好いつてことよ。だが遲くなつたら、行かないかも知れねえよ。』
『まさか、一時二時まで出前がありやしまいし。加之《それに》此頃は夜が長いよ。』
『眞實《ほんとう》だ。』と松公は呟きながら、通《とほり》を突切つてしまふ。
『畜生《ちきしやう》!』とお大は無上に胸が焦燥《いら/\》して、『莫迦にしてら』と突拍子な聲を出しながら、スタ/\歩出す。
細い路次《ろじ》を通つて、宅《うち》の前まで來ると、表の戸は一昨日《おとゝひ》締めて行つたまゝである。何處をほつき※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つてゐたのか、宛然《まるで》夢中で、自分にも明瞭《はつきり》覺《おぼへ》がない。が、今は淺草に住つてゐる友達と、一昨日《おとゝひ》一日公園をぶら/\遊んで、其晩|其處《そこ》で泊つたことは確である。昨日《きのふ》は一日、芝で古道具屋をしてゐる叔母の處へ行つて、散々《さんざ》ツぱら姉の棚卸《たなおろ》しや、自分の自惚《のろけ》やら愚痴やら並べて、其晩|寄席《よせ》へ連出したことも確である。今日は日比谷の散歩やら、芝居の立見やら、滿《つま》らなく日を暮して、お終《しまひ》に床屋へ入込《はいりこ》んで今まで油を賣つてゐたのであるが、氣がついて見ると、腹はもう噛《かみ》つくやうに減《へ》つてゐる。
戸をあけて宅《うち》へ入らうとすると、闇の中から、哀《あはれ》な細い啼聲《なきごゑ》を立てゝ、雨にビシヨ/\濡れた飼猫の三毛が連《しきり》に人可懷《ひとなつかし》さうに絡《からま》つて來る。
お大はハツと思つたが、小煩《こうるさ》くなつて、
『チヨツ煩《うるさ》い畜生《ちきしやう》だね。いくら啼いたつて、もう宅《うち》にや米なんざ一粒だつて有りやしないよ。お前よりか、此方《こつち》が餘程《よつぽど》餒《ひもじ》いや。』と呶鳴《どな》りながら、火鉢と三味線の外、何《なん》にもない上《うへ》へ上つて行く。
で、手撈《てさぐ》りに、火鉢の抽斗《ひきだし》からマツチを取出すと、手捷《てばしこ》く摺《すり》つけて、一昨日《おとゝひ》投出《ほうりだ》して行つたまゝのランプを、臺所《だいどこ》の口から持
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