にしてるよ。松公はもと/\此方《こつち》の弟子ぢやないか。其をお前が引張込んで、散々《さんざ》ツぱら巫山戯《ふざけ》た眞似《まね》をして置いて……』と未《ま》だ何か毒づかうとしたが、急に周圍《あたり》に氣がつくと、低聲《こごゑ》になつて、『風《ふう》が惡いよお前は……。』
 お大は急に行詰つて、『アヽ何とでも言ふが可《い》い。私《わたし》が風《ふう》が惡いんだよ。』
『其にお前、昨夜《ゆふべ》も宵の口にお前の宅《うち》の前を通つたら、直《ぴつた》り戸を締めて、隣の洗濯屋の婆さんに聞いたら、其前の晩から歸らないつて言つてたよ。肝腎《かんじん》の稼業《かげふ》のお稽古もしないで、色情《さかり》のついた犬みたやうに、一體|何處《どこ》を彷徨《うろつ》いて歩いてゐるんだよ。』
 床屋は又ウフヽと笑ふ。
『お大さん、何だか風向《かざむき》が惡いね。』
『何を言つてやがるんだよ。』とお大は血走つたやうな目で床屋を睨《ねめ》つけ、肉と血とで脹《ふく》らんだ頬を愈《いよい》よ脹《ふくら》ましたが、『何とでも言ふが可《い》いよ。口は重寶なものさ。』ともう焦燥《いら/\》して口が利《き》けず、口惜《くや》しさうに姉の顏を見詰めてゐる。
『それに其風《そのふう》は何だよ。』とお山は言ふだけの事は云つてやると云ふ風《ふう》で、『お前着物を如何《どう》お爲《し》なんだよ。此寒いのに、ベラ/\した袷《あはせ》かなんかで。其樣《そん》な姿《なり》で此邊を彷徨《うろ/\》しておくれでないよ、眞實《ほんとう》に外聞が惡いから。』
『フン、孰《どつち》が外聞が惡いんだらう。私や十歳《とを》の時から姉《ねえ》さんの御奉公してゐたんだよ。其で姉さんの手から、半襟《はんゑり》一|懸《かけ》くれたこともありやしないで。チヨツ利いた風《ふう》な事を言つてるよ。』
『其は、お前が、腕もありもしない癖に、妙に私に楯《たて》つくぢやないか。だから、私が、もう少し辛抱お爲《し》つて言つてるのに、お前が何《なん》でも彼《かん》でも一本立でやつて見せますつてんで……。』
『アヽ姉さんとこに一生お爨《さん》どんをして居たら可《い》いでせうけれどね……。』
 お山は些《ちよツ》と時計を覗《のぞ》いて、『オヤもう四時だよ。お大、人を呼込んでおいて、用事は其限《それきり》かい。又|宅《うち》を明けてあるんだらうから、日の暮れないうち、早くお歸り。』とお山は言棄てて、コートの裾を※[#「寨」の「木」に代えて「衣」、第3水準1−91−84]《から》げながら、ゴタ/\した秋雨《あきさめ》の町を菊坂の方へ急いでゆく。
 お大は後で少時《しばらく》姉の惡口《わるくち》を言つてゐたが、此も日の暮に店を出て行く。
 狹い柳町の通は、造兵歸《ざうへいがへり》の職工で、※[#「赭のつくり/火」、第3水準1−87−52]《にえ》くり返るやうである。軒燈《けんとう》が徐々《そろ/\》雨の中から光出して、暖かい煙の這出《はひだ》して來る飯屋《めしや》の繩暖簾《なはのれん》の前には、腕車《くるま》が幾臺となく置いてある。お大は何處かの番傘を翳《さ》して、ブヨ/\した横肥《よこぶとり》の體を、町の片側からノソ/\と歩いてゐる。
 お大は姉と違つて、幼《ちひさ》い時分から苦勞性の女であつたが、糸道《いとみち》にかけては餘程鈍い方で、姉も毎日|手古摺《てこず》つて居た。其癖負けぬ氣の氣象《きしやう》で、加之《おまけに》喧嘩が好《すき》と來て居る。何か知ら始終不平を持つてゐる女で、其狹い額を見ても、曇然《どんより》した目のうちを見ても、何處か一癖ありさうな顏構《つらがまへ》である。
 別れて出たては至極《しごく》穩《おだや》かで、白山《はくさん》あたりから通つて來る、或|大工《だいく》と懇意になつて、其大工が始終長火鉢の傍《そば》に頑張つてゐた。朝から酒を飮み、日の暮れぬうちから寢込んで、二人とも夢中になつてゐたもので、少しばかり附いた弟子も、不殘《のこらず》見限つて離れてしまひ、肩を入れた近所の若い者も、直《ばつた》り足を絶つて了つた。がお大は一向平氣で居た。
 すると、此《この》夏頃から、松公といふ、色白の若い蕎麥屋《そばや》の出前《でまへ》を口説《くどき》落して、金《かね》(大工の名)の目を忍んで、チヨイ/\宅《うち》へ引張込むやうになつた。松公は無論本氣ではなかつたらしいが、女が容易に放さぬので、可厭々々《いや/\》ながらも自由になつてゐた。其事が何時《いつ》か薄々金《かね》の耳へ入つた。金《かね》の足は、何時かバツタリ絶えてしまふ。
 其樣《そん》な心算《つもり》ではなかつたから、お大は繁々《しげ/\》金《かね》へ呼出をかける。第一大切の米櫃《こめびつ》を亡《なく》して了つては、此先生活の道がないので、見かけによら
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