絶望
徳田秋聲

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)何處《どこ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)或|寄席《よせ》の前の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)騷※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]る

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)オイ/\
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『オイ/\何處《どこ》へ行くんだよ。』
 とお大《だい》と云ふ裏町のお師匠さんが、柳町《やなぎちやう》の或|寄席《よせ》の前の汚《きたな》い床屋から往來へ聲をかける。
 聲をかけられたのは、三|人連《にんづれ》の女である。孰《いづれ》も縞《しま》か無地《むぢ》かの吾妻《アヅマコート》に、紺か澁蛇《しぶじや》の目《め》かの傘を翳《さ》して、飾《めか》し込んでゐるが、聲には氣もつかず、何やら笑ひさゞめきながら通過ぎやうとする。
『オイ/\、素通《すどほり》は不可《いけな》いよ。』とお大は一段聲を張あげて憤《じ》れつたさうに、
『此《こゝ》にお大さんが控えて居るんだよ、莫迦野郎《ばかやらう》唯《たゞ》は通しやしないよ。』
 三人のうちで、一番|丈《たけ》の高いお山と云ふ女が偶《ひよい》と振顧《ふりむ》くと、『可厭《いや》だよ。誰かと思つたらお大なんだよ。』と苦笑《にがわらひ》しながら罰《ばつ》が惡いと言ふ體《てい》で顏を見る。
『フン、また芝居だろ。』とお大は赭顏《あからがほ》に血走つたやうな目容《めつき》をして、『好《い》い年をして好い氣だね。』
 お山と云ふのは、もう三十四五の年増《としま》である。お大の姉で、此《これ》も常磐津《ときはづ》のお師匠さんなのだ。亭主が此塲末の不景氣な床屋で、宅《うち》には小供が三人まであるが、其等《それら》は一切人の好《い》い亭主に敲《たゝき》つけておいて、年中近所の放蕩子息《のらむすこ》や、若い浮氣娘と一緒になつて、芝居の總見《そうけん》や、寄席入《よせつぱい》りに、浮々《うか/\》と日を送り、大師詣《だいしまゐり》とか、穴守稻荷《あなもりいなり》とか、乃至《ないし》は淺草の花屋敷とか、團子坂の菊とか云ふと、眞先に飛出して騷※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]る。
 一二年前までは、妹のお大を臺所働《だいどころばたらき》やら、子供の守《もり》やら、時偶《ときたま》代稽古などにも使つて、頤《あご》で追※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]してゐたものが、今では妹の方が強くなり、町内の二三の若者が同情して、後楯《うしろだて》になつてくれたのを幸ひ、姉と大喧嘩をして、其まゝ別れ、別に一世帶構へることになつた。其以來二人は前世《ぜんせ》の敵《かたき》か何ぞのやうに仲が惡い。
 お山は二|歩《あし》三|歩《あし》進寄つて、『何だよ大きな聲で……芝居に行かうと、何に行かうと餘計なお世話ぢやないか。お前に不義理な借金を爲《し》てありやしまいし。』と言つて奧を窺込《のぞきこ》むと、丁度|凸凹《でこぼこ》なりの姿見の前で、職工風の一人の男の頭にバリカンをかけてゐる、頭髮《け》のモヂヤ/\した貧相な此《こゝ》の親方に、『今日《こんち》は。』と挨拶する。
 親方はガリ/\遣《や》りながら、『よく降るぢやござんせんか。今日は本郷座ですね。』
『ハア、今日はお義理でね。眞實《ほんとう》に方々引張られるんで、遣切《やりき》れやしない。今日あたり宅《うち》に寐轉《ねころ》んでる方が、いくら可《い》いか知れやしない。』
『巧《うま》く言つてるよ。』とお大は嫣然《につこり》ともしない。
 床屋はちよい/\お山の顏を見ながら『お山さんは、何時《いつ》でも引張凧《ひつぱりだこ》だからね。』
『誰が引張るもんか。』とお大は相變らず喧嘩腰で、焦燥《いら/\》しながら『子供に襤褸《ぼろ》を着せておいちや、年中役者騷ぎをしてゐるんぢやないか。亭主こそ好《い》い面の皮だ。』
『何だね此人は。然《さう》云ふお前は何だえ。』とお山は憎さげにお大の顏を見詰めて、『今日は酒にでも醉つてるんぢやないかい。可厭《いや》に人に突かゝるぢやないか。アヽ解つた、お前此頃|松公《まつこう》に逃《にげ》を打たれたと云ふから、其で其樣《そん》なに自棄糞《やけくそ》になつてるんだね。道理で目の色が變だと思つた。オヽ物騷々々!』
 床屋は『ウフヽ』と氣味の惡い笑方をする。
『大きにお世話だよ。』とお大は憤々《ぶり/\》して、『お氣毒《きのどく》さまだが、松公は此方《こつち》が見切をつけて縁を切つたんだよ。如彼《あんな》ひよつとこの一人や二人、欲しけりや何時《いつ》でも貴方《あなた》に上げますよ。』
『チヨツ莫迦《ばか》
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