しら。」
 銀子も淡い慾がないわけでもなかったが、それも棒が吭《のど》へ閊《つか》えたようで、気恥ずかしい感じだった。
 ある日も親爺が見番で将棋を差している隙《すき》に、裏通りをまわって栗栖の家の門を開けた。栗栖はちょうど瓶《かめ》に生かったチュリップを、一生懸命描いているところだったが、
「お銀ちゃんか。どうしたい。しばらく来なかったね。」
 栗栖はパレットを離さず、刷毛《はけ》でちょいちょい絵具を塗っていた。
 銀子は休業届を出し、ずっと退《の》いていたので、栗栖は座敷では逢《あ》うこともできなかったが、銀子も少し気の引けるところもあって、前ほどちょいちょい来はしなかった。やがて彼はパレットを仕舞い、画架も縁側へ持ち出して、古い診察着で間に合わしている仕事着もぬいで、手を洗いに行って来ると、
「ちょうどいいところへ来た。田舎《いなか》から大きな蟹《かに》が届いたんだ。」
 栗栖は福井の産まれで、父も郡部で開業しており、山や田地もあって、裕福な村医なのだが、その先代の昔は緒方洪庵《おがたこうあん》の塾《じゅく》に学んだこともある関係から、橋本左内の書翰《しょかん》などももっていた。
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