けで、湯島の家で見た時の、世帯《しょたい》に燻《くすぶ》った彼女とはまるで別の女に見え、常子も見惚《みと》れていた。
「いらっしゃい。」
 小菊はいやな顔もしず、着つけがすむとそこに坐って挨拶《あいさつ》した。
「今日はおめでとう。それにお天気もよくて。」
「今度はまたいろいろ御心配かけまして。」
 小菊は懐鏡《ふところかがみ》を取り出して、指先で口紅を直しながら、
「でもいいあんばいに、こんな所が見つかりましたからね。」
「じゃ姐《ねえ》さん出かけましょう。」
 箱丁が言うので、小菊も、
「どうぞごゆっくり。」
 と言って、褄《つま》を取って下へおりた。
「いやどうも馴《な》れないことでてんてこまいしてしまった。しかしこれでまあ今夜から商売ができるわけだ。何しろフールスピイドで、家号披露目と自前びろめと一緒にやったもんだから。」
 二階へ行こうというので、常子もお篠《しの》お婆《ばあ》さんと一緒に上がって行った。彼岸桜がようやく咲きかけた時分で、陽気はまだ寒く、前の狭い通りの石畳に、後歯の軋《きし》む音がして、もうお座敷へ出て行く芸者もあった。
 菓子を撮《つま》んでお茶を呑《の》みながら、松島は商人らしく算盤《そろばん》を弾《はじ》いて金の出を計算していたが、ここは何といっても土地が狭いので、思ったより安くあがった。一時間ばかりで小菊は一旦帰り、散らばっている四五軒の料亭《りょうてい》を俥《くるま》でまわった。
 その晩小菊は忙しかった。今行ったかと思うと、すぐ後口がかかり、箱丁《はこや》もてんてこまいしていたが、三時ごろにやっと切りあげ、帰ってお茶漬《ちゃづけ》を食べて話していると、すぐに五時が鳴り、やがて白々明けて来た。
 常子は夜が早い方で、八時ごろに引き揚げて行った。
 三日ばかり松島は家をあけ、四日日の午後ふらりと帰って来たが、電気のつく時分になるとまた出かけるのだったが、そうしているうちに、三月四月と時は流れて、小菊も土地のやり口が呑み込め、お客の馴染《なじみ》もできて、出先の顔も立てなければならないはめ[#「はめ」に傍点]にも陥り、わざとコップ酒など引っかけ、鬢《びん》の毛も紊《ほつ》れたままに、ふらふらして夜おそく帰って来ることもあった。
 神経的な松島の目は鋭く働きはじめた。
「自前の芸者が、一時二時まで何をしているんだ。」
 上がるとすぐ松島は呶鳴《どな》る。小菊は誰某《たれそれ》と一座で、客は呑み助で夜明かしで呑もうというのを、やっと脱けて来たと、少し怪しい呂律《ろれつ》で弁解するのだったが、それはそんなこともあり、そうでない時もあった。
 松島は出て行く時の、帯の模様の寸法にまで気をつけるのだったが、帰る時それがずれているか否かはちょっと見分けもつきかねるのだった。

      十

 何とか言っているうちに、春を迎えたかと思う間もなく盆がやって来、月が替わるごとの移りかえが十二回重なればもう暮で、四五年の月日がたつうちに、この松廼家《まつのや》も目にみえて伸び出して来た。昨日まで凍《かじか》んだ恰好《かっこう》で着替えをもって歩いていた近所のチビが、いつの間にか一人前の姐《ねえ》さんになりすまし、あんなのがと思うようなしっちゃか面子《めんこ》が、灰汁《あく》がぬけると見違えるような意気な芸者になったりするかと思うと、十八にもなって、振袖《ふりそで》に鈴のついた木履《ぽっくり》をちゃらちゃらいわせ、陰でなあにと恍《とぼ》けて見せる薹《とう》の立った半玉もあるのだった。
 とんとん拍子の松の家でも、その間に二十人もの芸者の出入りがあり、今度は少し優《ま》しなのが来たと思うと、お座敷が陰気で裏が返らなかったり、少し調子がいいと思っていると、客をふるので出先からお尻《しり》が来たり、みすみす子供が喰《く》いものになると思っても、親の質《たち》のわるいのは手のつけようがなく、いい加減前借を踏まれて泣き寝入りになることもあった。係争になる場合の立場も弱かった。
 せっかく取りついてみたが松島もつくづくいやになることもあった。抱えの粒が少しそろったところで小菊に廃業させ、今は被害|妄想《もうそう》のようになってしまった自分の気持を落ち着かせ、彼女をもほっとさせたいと思うのだったが抱えでごたごたするよりか、やっぱり自分で働く方が、体は辛《つら》くとも気は楽だと小菊は思うのであった。
 松島は小菊の帰りが遅くなると、後口があるようなふうにして電話をかけ、そっと探りを入れてみたりすることもあり、少し怪しいと感づくと、帳場に居たたまらず、出先の家《うち》のまわりをうそうそ歩くことも珍しくなかった。
「夜店のステッキがまたじゃんじゃんするといけないから、貴女《あなた》は早くお帰り。」
 などと小菊は傍《はた》から言われ
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