言われした。
 痴話|喧嘩《げんか》のあとは、小菊も用事をつけるか、休業届を出すかして骨休めをした。
 そのころになると、とっくに本郷の店も人に譲り、マダムの常子も春日町の借家を一軒立ち退《の》かせ、そこで小綺麗《こぎれい》に暮らしていたが、もう内輪同様になっているので、気が向くと松の家へ入りこみ、世間話に退屈を凌《しの》いだ。小菊も薄々知っていたが、松島も折にふれては機嫌《きげん》取りに春日町を訪ねるらしく、芸者を抱える時に、ちょっと金を融通してもらったりしていた。前々からのはどうなっているのか、多分一旦は何ほどか返したと思うと、また借りたり、ややこしいことになっているので、常子も松島も明瞭《めいりょう》なことは解《わか》らず、彼女もたまに返してもらえば、思わぬ株の配当でも貰《もら》ったような気がするのだった。
 松島も次第に商売の骨《こつ》もわかり、周旋屋の手に載せられるようなどじ[#「どじ」に傍点]も踏まず、子供を使いまわすことにも、特得の才能が発見され、同業にも顔が利くようになった。やがて松の家の芸者が立てつづけに土地での玉数《ぎょくかず》のトップを切り、派手好きの松島は、菰冠《こもかぶ》りを見番へ担《かつ》ぎ込ませるという景気であった。
 松島は夏になると、家では多勢の抱えの取締りをお篠お婆《ばあ》さんと小菊に委《まか》せて伊香保《いかほ》へ避暑に出かけることにしていた。小菊|母子姉妹《おやこきょうだい》も交替で行くこともあり、春日町のマダムも出かけた。毎年旅館は決まっていて、六月の半ば過ぎになると、早くも幾梱《いくこり》かの荷物が出入りの若衆の手で荷造りされ、漬物桶《つけものおけ》を担ぎ出さないばかりの用意周到さで同勢上野へ繰り出すのであった。松島はすらりとした痩《や》せ形で、上等の上布|絣《がすり》に錦紗《きんしゃ》の兵児帯《へこおび》をしめ、本パナマの深い帽子で禿《はげ》を隠し、白|足袋《たび》に雪踏穿《せったば》きという打※[#「※」は「にんべん+分」、第3水準1−14−9、367−下9]《いでたち》で、小菊や品子を堅気らしく作らせ、物聴山《ものききやま》とか水沢の観音とか、または駕籠《かご》で榛名湖《はるなこ》まで乗《の》し、榛名山へも登ったりした。部屋は離れの一|棟《むね》を借り、どんなブルジョウアかと思うような贅沢《ぜいたく》ぶりであった。

      十一

 その時代にもこんな古風な女もあった――。
 小菊は九月の半ば過ぎに、松島から、もう引き揚げるのに足を出すといけないから、金を少し送れという電話がかかったので、三四日遊んで一緒に帰るつもりで、自分で持って行ったのだったが、どうしたのか午後に上野を立った彼女は、明くる日の昼ごろにもう帰って来ていた。
「どうしたのさ。一緒に帰ればいいのに。」
 お婆さんが訊《き》くと、
「え、でもやっぱり家が心配で。」
 彼女は曖昧《あいまい》な返事をしながら、何か落ち着かない素振りをしていた。
 伊香保では客もめっきり減り、芒《すすき》の穂なども伸びて、朝夕は風の味もすでに秋の感触であったが、松島が品子と今一人、雑用に働いている遠縁の娘と三人づれで、土産《みやげ》をしこたま持って帰ってみると、小菊の姿は家に見えなかった。
「今日帰ることは知ってるはずだから、髪でも結いに行ったんだろう。」
 松島は独りで思っていた。
「子供の時分にいた房州の海が見たくなったから、二三日行って来ると言って、昨夜《ゆうべ》霊岸島から船で行きましたよ。お父さんたちの帰る時分に、帰って来ますといってね。」
 松島は怪訝《けげん》な顔をしたが、またあの石屋にでも誘い出されたのではないかと、しばらく忘れていた石屋のことを何となく思い出したりしていた。
 しかしそれは当たらず、小菊は昔しの抱え主を訪ね、幼い時代の可憐《いとし》げな自分の姿を追憶し、しみじみ身の上話がしたかったのであった。やり場のない憂愁が胸一杯に塞《ふさ》がっていた。品子は妹といっても、腹違いであり、小菊はお篠にとって義理の娘であった。今までに互いに冷たい感じを抱《いだ》いたことは一度もなかった。
「それじゃ貴女《あなた》も別に一軒出して、新規に花々しく旗挙げしたらどうだえ。」
 昔しの主人は言うのであったが、内輪に生まれついた小菊にそんな行動の取れるはずもなかった。
 小菊は遅くまで一晩話し、懐かしい浪《なみ》の音を耳にしながら眠ったが、翌日は泳ぎ馴《な》れた海を見に行き、馴染《なじみ》のふかい町の裏通りなど二人で見て歩き、山の観音へもお詣《まい》りして、山手の田圃《たんぼ》なかの料理屋で、二人で銚子《ちょうし》を取り食事をした。
 小菊の帰ったのは翌日の朝であった。
「何だってまた己《おれ》の帰るのを見かけて、房州なんか行
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