ったんだ。」
「すみません。何だか急にあの家が見たくなったもんですから。」
 小菊は心の紊《みだ》れも見せず、素直に答えた。二人は暗礁に乗りあげたような気持でしばらく相対していた。
 彼女が自決したのは、それから一月とたたぬうちであった。自決の模様については、噂《うわさ》が区々《まちまち》で、薬品だともいえば、刃物だとも言い、房州通いの蒸汽船から海へ飛びこんだともいわれ、確実なことは不思議に誰にも判らなかった。
 均平は銀子が松の家へ住み込むちょうど一年前に起こった、この哀話を断片的に二三の人から聴《き》き、自分で勝手な辻褄[#底本は「褄」を「棲」と誤植]《つじつま》を合わせてみたりしたものだったが、土地うちの人は、この事件に誰も深く触れようとはしなかった。
「姐《ねえ》さんどういう気持でしょうかね。」
 そういう陰気くさいことに、あまり興味のもてず、簡単に片附けてしもう銀子も、小菊の心理は測りかねた。
「さあね。やっぱり芝居にあるような義理人情に追いつめられたんじゃないか。」
「そうね。」
「とにかく松島を愛していたんだろう。よく一人で火鉢《ひばち》の灰なんか火箸《ひばし》で弄《いじ》りながら、考えこんでいたというから。」
「でもいくらか面当《つらあ》てもあったでしょう。」
「それなら生きていて何かやるよ。」
「そういえば父さんも、時々|姐《ねえ》さんの幻影を見たらしいわ。死ぬ間際《まぎわ》にも、お蝶《ちょう》がつれに来たって、譫言《うわごと》を言っていたらしいから、父さんも姐さんには惚《ほ》れていたんだから、まんざら放蕩親爺《ほうとうおやじ》でもなかったわけね。初めて真実にぶつかったとでも言うんでしょうよ。」
「そうかも知れない。」
「父さんもお金がなかったからだと言う人もあるけれど、不断注意ぶかいくせに、入院が手遅れになったのも、死ぬことを考えていたからじゃないの。」

    素 描

      一

「私はこの父さんと、一度きり大衝突をしたことがあるの。」
 ある日銀子は、松島の噂《うわさ》が出た時言い出した。
 それは第一期のことだったが、この世界もようやく活気づこうとする秋のある日のことで、彼女はその日も仲通りの銭湯から帰って、つかつかと家《うち》の前まで来ると、電話があったらしく、マダムの常子が応対していた。硝子戸《ガラスど》のはまった格子《こうし》の出窓の外が、三尺ばかり八ツ手や青木の植込みになっており、黒石などを配《あしら》ってあったが、何か自分のことらしいので、銀子は足を止めて耳を澄ましていたが、六感で静岡の岩谷《いわや》だということが感づけた。
「……は、ですけれどとにかく今松ちゃんはいないんですよ。もう帰って来るとは思いますけれど、帰ってみなければ何とも申し上げかねますんですよ。何しろ近い所じゃありませんから、同じ遠出でも二晩のものは三晩になり五晩になり、この前のようなことになっても、宅で困りますから。」
 しかし話はなかなか切れず、到頭松島がとんとん二階からおりて来て、いきなり電話にかかった。
「先は理窟《りくつ》っぽい岩谷だから、父さんも困っているらしいんだけれど、何とかかとか言って断わっているのよ。」
 岩谷はある大政党の幹事長であり、銀子がこの土地で出た三日目に呼ばれ、ずっと続いていた客であった。議会の開催中彼は駿河台《するがだい》に宿を取っていたが、この土地の宿坊にも着替えや書類や尺八などもおいてあり、そこから議会へ通うこともあれば、銀子を馴染《なじみ》の幇間《ほうかん》とともに旅館へ呼び寄せることもあった。銀子は岩谷に呼ばれて方々遠出をつけてもらっていたが、分けの芸者なので、丸抱えほど縛られてもいず、玉代にいくらか融通を利かすことも、三度に一度はしていた。長岡とか修善寺《しゅぜんじ》などはもちろん、彼の顔の利く管内の遊覧地へ行けば、常子がいうように、三日や五日では帰れなかったが、銀子も相手が相手なので、搾《しぼ》ることばかりも考えていなかった。
 岩谷は下町でも遊びつけの女があり、それがあまり面白く行かず、気紛《きまぐ》れにこの土地へ御輿《みこし》を舁《かつ》ぎ込んだものだったが、銀子がちょっと気障《きざ》ったらしく思ったのは、いつも折鞄《おりかばん》のなかに入れてあるく写真帖《しゃしんちょう》であった。
 写真帖には肺病で死んだ、美しい夫人の小照が幾枚となく貼《は》りこまれてあり、彼にとっては寸時も傍《そば》を離すことのできない愛妻の記念であった。妻は彼の門地にふさわしい家柄の令嬢で、岩谷とは相思のなかであり、死ぬ時彼に抱かれていた。写真帖には処女の姿も幾枚かあったが、結婚の記念撮影を初めとして、いろいろの場合の面影が留《とど》めてあった。銀子のある瞬間が世にありし日の懐かしい夫人の感
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