じを憶《おも》い起こさせるのて、座敷へ姿を現わした刹那《せつな》の印象が心に留まった。しかし満点というわけには行かず、妻の生きた面影は地上では再び見る術《すべ》もなかった。
岩谷の片身難さぬ尺八も、妻の琴に合わせて吹きすさんだ思い出の楽器で、彼はお座敷でも、女たちの三味線《しゃみせん》に合わせて、時々得意の鶴《つる》の巣籠《すごも》りなどを吹くのだった。
岩谷は柔道も達者で、戯れに銀子の松次を寝かしておいて吭《のど》を締め、息の根を止めてみたりした。二度もそんなことがあり、一度は証書を書かせたりした。
「試《ため》すつもりか何だか知らないけれど、いやな悪戯《いたずら》ね、ああいう人たちは、みんなやるわ。」
銀子は言っていたが、情熱的な岩谷には彼女も心を惹《ひ》かれたものらしく、話にロマンチックな色がついていた。
「それでその電話はどうしたのさ」
「私岩谷だと思ったから、いきなり上がって行って電話にかかったの。岩谷はその時|興津《おきつ》にいたんだわ。しょっちゅう方々飛びまわっていたから。それで行く先々に仲間の人がいて、何かしら話があるのね。お金もやるのよ。あれから間もなく松島|遊廓《ゆうかく》の移転問題で、収賄事件が起こったでしょう。そしてあの男は、ピストルで死んだでしょう。」
「あの時分から政党も、そろそろケチがつき出したんじゃないか。」
「岩谷は今ここにいるから、来いというのよ。来るか来ないか、はっきり返辞をしろというんで、さっきからの電話のごたごたで、少し中っ腹になっているの。」
二
「それでどうしたんだ。」
均平は淡い嫉妬《しっと》のようなものから来る興味を感じたが、銀子はいつも話の要点をそらし、前後の聯絡《れんらく》にも触れない方だったので面倒くさいことを話しだしたものだというふうで、
「私も傍に人がいるから、言いたいこともいえないでしょう。は、はとか、ああそうですかとか言ったきりで電話を切ってしまったの。私が行くとも行かないとも言わないもんだから、みんな変な顔していたけれど、それから警戒しだしたの。お風呂《ふろ》へ行くにも髪結いさんへ行くにも、何とかかとか言って、子供を守《も》りするふうをして幸ちゃんが付いて来るの。どこの主人でも、抱えとお客とあまり親密になることは禁物なんだわ。どこの出先からも万遍なくお座敷がかかって、お馴染《なじみ》のお客とも付かず離れずの呼吸でやらしたいから、後口々々と廻すように舵《かじ》を取るんです。いいお客がつかないのも困るけれど、深くなるのも心配なんです。」
均平はこの世界の内幕は、何も知らなかった。
「私もその時分はこれでなかなか肯《き》かん坊だったから、ああこれなら安心だと監視の手が緩《ゆる》んだ時分に、ちょっとそこまで行くふりして、不断着のまま蟇口《がまぐち》だけもって飛び出してしまったんです。そして東京駅でちょっと電話だけかけて、何時かの汽車に乗ってしまったの。」
「それで……。」
「それから別に……。三保《みほ》の松原とか、久能山《くのうさん》だとか……あれ何ていうの樗牛《ちょぎゅう》という人のお墓のある処《ところ》……龍華寺《りゅうげじ》? 方々見せてもらって、静岡に滞在していたの。そして土地の妓《こ》も呼んで、浮月に流連《いつづけ》していたの。まあ私は罐詰《かんづめ》という形ね。岩谷もあの時分は何か少し感染《かぶ》れていたようだわ。お前さえその気なら、話は後でつけてやるから、松の家へ還《かえ》るなというのよ。少し父さんに癪《しゃく》にさわったこともあったのよ。私だってそれほどの決心もなかったんだから、このままここにいたところで、岩谷が入れるつもりでいても、家へ入れるわけではないし、入ったところで先は格式もあるし、交際も広いから、私ではどうにもならないでしょう。第一親にもめったに逢《あ》えないんだもの。私も心配になって、実は少し悲しくなって来たのよ。独りでお庭へ出て、石橋のうえに跪坐《しゃが》んで、涙ぐんでいたの。すると一週間目に、箱丁《はこや》の松さんとお母さんが、ひょっこりやって来たものなの。随分方々探し歩いたらしいんだけれど、とにかく後でゆっくり相談するから、一旦は帰ってくれって言うんですの。内々私も少しほっとした形なの。第一岩谷もあの時分お金に困っていたんだか何だか、解決するなら前借を払うのならいいんだけれど、そうでもないし、帰るも帰らないも私の肚《はら》一つだというんだから、わざわざお母さんまで来たのに、追い返すのもどうかと思って、一緒に帰ってしまったの。何とか言って来るかなと思って、私も何だか怏々《くさくさ》していると、とても長い手紙が来たの。何だかむずかしいことが書いてあったけれど、結局、女は一旦その男のものとなった以上、絶対に信頼して
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