た。しかし堅気にしておけばおいたで、目に見えない金が消え、先の生活の保証のつく当てもなく、ゴールのないレースを無限に駈《か》けつづけているに等しかった。それに湯島時代でも経験したように、女房が嗅《か》ぎつけ、葛藤《かっとう》の絶え間がなかった。何よりも生活それ自体が生産機能でなければならなかった。松島と小菊はいつもそのことで頭を悩ました。小料理屋、玉突き、化粧品店、煙草《たばこ》の小売店、そんな商売の利害得失も研究してみた。彼は洋服屋に懲り懲りした。次第にお客が羅紗《ラシャ》の知識を得たこと、同業者のむやみに殖《ふ》えたこと、他へは寸法の融通の利かない製品の、五割近くのものが、貸し倒れになりがちなので、金が寝てしまうことなどが、資本の思うようにならないものにとって脅威であり、とかく大きい店に押されるのであった。
「だから貴方《あなた》もぶらぶらしていないで、自分で裁断もやり、ミシンにかかればいいじゃありませんか。」
年上のマダムは言うのであった。彼女は近頃財布の紐を締めていた。
「大の男がそんなまだるいことがしていられますか。よしんばそれをやってみたところで、行き立つ商売じゃないよ。」
「第一あんな人がついていたんじゃ、いくら儲《もう》かったって追い着きませんよ。どうせ腐れ縁だから、綺麗《きれい》さっぱり別れろとは言いませんけれど、何とかあの人も落ち着き、貴方もそうせっせと通わないで月に二度とか三度とか、少し加減したらどうですかね。」
「むむ、おれも少し計画していることもあるんだがね。何をするにも先立つものは金さ。」
今までにマダムの懐《ふところ》から出た金も、少ない額ではなかった。今度はきっと清算するから、手切れがいるとか、今度は官庁の仕事を請け負い、大儲けをするから、利子は少し高くてもいいとか、松島の口車に載せられ、男への愛着の絆《きずな》に引かされ、預金を引き出し引き出ししたのだった。
彼女は松島と同じ家中の士族の家に産まれ、松島の従兄《いとこ》に嫁《とつ》いだとき、容色もよくなかったところから、相当の分け前を父からもらい、良人《おっと》が死んでから、株券や家作や何かのその遺産と合流し、一人娘と春日町《かすがちょう》あたりに、花を生けたり、お茶を立てたり、俳句をひねったりして、長閑《のどか》に暮らしていた。母に似ぬ娘は美形で、近所では春日小町と呼んでいたが、ある名門出の社会学者に片着いていたが、一人の女の子を残して急病で夭死《わかじに》し、彼女の身辺に何か寂しい影が差し、生きる気持が崩折《くずお》れがちであった。そんな折に亡夫の親類の松島が何かと相談に乗ってくれ、お茶を呑《の》みに寄っては、話相手になってくれた。松島も別に計画的にやった仕事ではなかったが、年上の彼女に附け込まれる弱点はあった。
育ちのいい彼女は、松島には姉のような寛容さを示し、いつとはなし甘く見られるようになり、愛情も一つの取引となってしまった。
今度も彼女は陶酔したように、うかうかと乗って、松島の最後の要求だと思えば、出してやらないわけに行かなかった。
つまり小菊に芸者屋を出さす相談であったが、彼女も最初に首をひねり、盗人《ぬすびと》に追い銭の感じがして、ぴったり来ない感じだったが、しかしその割り切れないところは何かの惑《まど》かしがあり、好いことがそこから生まれて来るように思えた。
「……そうすれば、今までのものも全部二倍にして返すよ。」
松島は言うのであった。彼女にも慾のあることは解《わか》っていた。
九
浅草ではちょうど芸者屋の出物も見つからず、小菊の主人と一直《いちなお》で朋輩《ほうばい》であった人が、この土地で一流の看板で盛っていて、売りものがあるから、おやりなさいといってくれるので、松島と小菊はそこへ渡りをつけ、その手引で店を開けることにした。
家号|披露目《びろめ》をしてから、一日おいて自前びろめをしたのだったが、その日は二日ともマダムの常子も様子を見に来て、自分は自分で角樽《つのだる》などを祝った。湯島時代に彼女は店の用事にかこつけ、二日ばかり帰らぬ松島を迎えに行き、小菊に逢《あ》ったこともあったが、逢ってみると挨拶《あいさつ》が嫻《しと》やかなので、印象は悪くなかった。それに本人に逢ってみると、自分の気持もいくらか紛らされるような気がして、それから少したってから、三人で上野辺を散歩して、鳥鍋《とりなべ》で飯を食い、それとなし小菊の述懐を聞いたこともあった。今度も相談相手は自分であり、後見のつもりで来てみたのだった。と看《み》ると玄関の二畳にお配りものもまだいくらか残っていて、持ちにきまった箱丁《はこや》らしい男が、小菊の帯をしめていた。彼女は鬢《びん》を少し引っ詰め加減の島田に結い、小浜の黒の出の着つ
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