ったり来るものを感じ、かれこれと品定めは無用、今まで人の目につかなかったのが不思議と、思わず食指の動くのを感じた。

      七

 行きつけの家で松島はしばらく小菊を呼んでいた。電話でもかけておかないと、時には出ていることもあったが、耳へ入りさえすれば少し遅くなっても、彼女はきっと貰《もら》って来ることにしていた。
 するとある日、約束の日に仕事が立て込んで行けず、翌日少し早目に出かけて行くと、彼女はいなかった。
「何ですかね、見番は用事になっているそうですけれど、そのうちには帰るでしょう。繋《つな》ぎに誰か呼びますから、どうぞごゆっくりなすって。」
 女中は言うのであった。
 しかし松島は呑《の》めそうにみえて、酒はせいぜい二三杯しか呑めず、唄《うた》も謳《うた》わず、女に凝る一方なので、小菊がいないとなると遊ぶ意味もなかった。芸者が二三人来て、お銚子《ちょうし》を取りあげ酌《しゃく》をするので、一口二口呑んでみても口に苦く、三味線《しゃみせん》を弾《ひ》かれても陽気にはなれないで、気を苛立《いらだ》つばかりであった。松島は待ちきれず、つかつか廊下へ出て女中を呼び、病気か遠出か小菊の家へ電話をかけさせてみた。そしてその返事で、小菊が客につれられて、三四人の芸者と熱海《あたみ》へ遠出に行っていて、昨日行ったのだから今夜は遅くも帰るのではないかというのであった。
 松島が座敷へ還《かえ》って来ると、一人の妓《こ》が何の気もなしに、
「小菊さんですか。小菊さんなら昨日新橋で一人でぼんやりしていたと言うわ。」
「一人で……。」
「そうらしいのよ。」
 いやなことが耳に入ったと、松島は思ったが、どうにもならず、約束の昨日というのと一人というのが面白くなく、その晩は家へ帰って寝た。
 間一日おいて、松島は小菊に逢い、連れが多勢で、決してお楽しみなどの筋ではなく、客も突然の思いつきで、誰某《だれそれ》さんに強《し》いられて往《い》きは往ったが、日帰りのつもりがつい二タ晩になったりして、一人先へ帰るわけにいかず、何も商売だと思って附き合っていたと、小菊もお茶を濁そうとしたが、松島はそれでは納まらず、何かとこだわりをつけたがるのであった。
「じゃあ今度話してあげるわ。」
 小菊はその場を逃げた。
 間もなく松島は、房州時代からの馴染《なじみ》の客が一人あることを知った。それは松島と目と鼻の間の駒込《こまごめ》に、古くから大きな店を構えている石屋で、二月か三月に一度くらい、船で観音|参詣《さんけい》に来て、そのたびに人目につかぬ裏道にある鰻屋《うなぎや》などで彼女を呼び、帰りには小遣《こづかい》をおいて行った。そこはこの土地にしては、建物も庭も風流にできており、荒れたところに寂《さび》があった。小でッぷりした四十がらみの男で、山上の観音堂の前には、寄進の燈籠《とうろう》もあり、信心家であった。本所の家の隣のおじさんと、気分の似たところもあって、小菊には頼もしく思われ、来るのが待ち遠しかった。赤坂で披露目《ひろめ》をした時も一ト肩かつぎ、着物の面倒も見てくれた。小菊の姿にどこか哀れふかいところがあるので、石屋は色恋の沙汰《さた》を離れた気持で、附き合っているのだったが、それだけに小菊に人情も出て来るのであった。
 しかし客はそればかりではなく、松島も気が揉《も》めるので、ここへ出てから二年目、前借もあらかた消えたところで、彼女は思い切って足を洗い、母や弟妹たちと一緒に、やがて湯島に一軒家をもったが、結局それも長くは続かず、松島の商売も赤字つづきで、仕送りも途絶えがちになったので、今度は方嚮《ほうこう》をかえ公園へ出た。小菊にすると、多勢の家族を控えて、松島一人に寄りかかっているのも心苦しかったが、世帯《しょたい》の苦労までして二号で燻《くすぶ》っているのもつまらなかった。
 公園は客が種々雑多であった。会社員、商人、株屋、土木請負師、興行師に芸人、土地の親分と、小菊たちにはちょっと扱い馴《な》れない人種も多かった。それにあまり足しげく行かないはずであった松島も、ここは一層気の揉めることが多く、小菊は滅茶々々《めちゃめちゃ》に頭髪《あたま》をこわされたり、簪《かんざし》や櫛《くし》を折られたりしがちであった。

      八

 小菊が開けてまだ十年にもならないこの土地へ割り込んで来て、芸者屋の株をもち、一軒の自前となり、辿《たど》りつくべき処《ところ》へ辿りついて、やっとほっとした時分には、彼女もすでに二十一、二の中年増《ちゅうどしま》であり、その時代のことで十か十一でお酌《しゃく》に出た時のことを考えると、遠い昔しの夢であった。
 松島という紐《ひも》ともいえぬ紐がついていて、彼女の浅草での商売は辛《つら》かったが、松島も気が気でなかっ
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