てからの子供だけに、歓喜も大袈裟《おおげさ》なもので、毎日々々湯を沸かし、新しい盥《たらい》を部屋の真ン中へ持ち出して湯をつかわせるのだった。
 品子は小さい時分から、松島の第二の妻の姉に愛され、踊りや長唄《ながうた》を、そのころ愛人の鹿島《かしま》と一緒に、本郷の講釈場の路次に逼塞《ひっそく》し、辛うじて芸で口を凌《しの》いでいた、かつての新橋の名妓《めいぎ》ぽん太についてみっちり仕込まれたものだったが、商売に出すつもりはなく、芸者屋の娘としては、おっとり育っていた。
 銀子は噂《うわさ》にきいている、土地で評判の品子の姉の写真が見たく、ある時老母にきいてみた。

      六

「私長いあいだお宅にいて、小菊姐さんの写真つい見たことないわ。」
 銀子が老母のお篠《しの》お婆《ばあ》さんに言うと、彼女は子供のような笑顔《えがお》で、
「写真はお父さんが、束にして天井裏かどこかへ仕舞ったのさ。」
 小菊は松島の死んだ妻で、品子姐さんの姉の芸名だが、お篠おばあさんは、そう言いながら、仏壇の納まっている戸棚の天井うらから、半紙に裹《くる》んだものを取り出して来た。
 銀子があけてみると、出の着物で島田の半身像のほかに仮装が幾枚かあり、手甲《てっこう》甲掛けの花売娘であったり、どんどろ大師のお弓であったりしたが、お篠お婆さんに似て小股《こまた》のきりりとした優形《やさがた》であった。赤坂時代のだという、肉づきのややふっくりしたのなぞもあった。
 均平もちょっと手に取ってみたが、どこか大正の初期らしい古風な感じであった。
 この小菊と松島との情痴の物語は、単に情痴といって嗤《わら》ってしまえないような、人間愛慾の葛藤《かっとう》で、それが娼婦型《しょうふがた》でないにしても、とかく二つ三つの人情にほだされやすいこの稼業《かぎょう》の女と、それを愛人にもった男との陥りやすい悲劇でもあろう。
 均平は芝居や小説にある花柳|情緒《じょうしょ》の感傷的な甘やかしさ美しさに触れるには、情感も疾《と》うの昔しに乾ききり、むしろ生まれつき醜悪な心情の持主でさえあったが、二人の愛慾の悩みは、あながちよそごとのようにも思えなかった。
 小菊は親たちが微禄《びろく》して、本所のさる裏町の長屋に逼塞していた時分、ようよう十二か三で、安房《あわ》の那古《なこ》に売られ、そこで下地ッ児《こ》として踊りや三味線《しゃみせん》を仕込まれ、それが彼女の生涯の運命を決定してしまった。
 彼女の本所の家の隣に、あの辺の工場で事務を扱い、小楽に暮らしている小父《おじ》さんがおったが、不断|可愛《かわい》がられていたので、暇乞《いとまご》いに行くと、何がしかの餞別《せんべつ》を紙にひねってくれ、お披露目《ひろめ》をしたら行ってやるから、葉書でもよこすようにとのことだったので、その通りすると、約束を反故《ほご》にせず観音|詣《まい》りかたがたやって来て、また何某《なにがし》かの小遣《こづかい》をくれて行った。彼女は東京でいっぱしの芸者になってからも、それを忘れることはなかった。
 銀子は深川で世帯《しょたい》をもった時分、裁縫の稽古《けいこ》に通っている家《うち》で、一度この小父さんに逢《あ》い、銀子が同じ土地に棲《す》んでいたというので、小菊のことをきかれた。しかし銀子がこの土地の、しかも同じ家へ来た時分には、小菊の亡くなった直後であった。
 那古は那古観音で名が高く、霊岸島から船で来る東京人も多かった。洋画家や文学青年も入り込んだ。芸者は大抵東京の海沿いから渡ったもので、下町らしい気分があり、波の音かと思われる鼓や太鼓が浜風に伝わった。小菊はそこに七年もいたが、次第に土地の狭苦しさに堪えられなくなり、客に智慧《ちえ》をかわれたりして、東京への憧《あこが》れと伸びあがりたい気持に駆られた。彼女は赤坂へと住みかえた。
 松島を知ったのは、ちょうどそのころであった。
 松島は儲《もう》けの荒いところから、とかく道楽ものの多いといわれる洋服屋で、本郷通りに店をもっていた。年上の女房に下職、小僧もいて、大学なぞへも出入りしていた。この店を出すについての資金も、女房の方から出ていた。松島はそうした世渡りに特別の才能をもっており、女の信用を得るのに生まれながら器用さもあった。
 一夜遊び仲間と赤坂で、松島は三十人ばかり芸者をかけてみた。若い美妓《びぎ》もあり、座持ちのうまい年増《としま》もあった。その中に小菊もいて、初め座敷へ現われたところでは、ちょいとぱっとしないようで、大して美形というほどでもなく、芸も一流とは言いがたく、これといって目立つ特色はなかったが、附き合っているうちに、人柄のよさが出て来、素直な顔に細かい陰影があり、小作りの姿にも意気人柄なところがあった。
 彼は何かぴ
前へ 次へ
全77ページ中22ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング