こう》じて、本来の自己を見失ってしまい、一度軌道をはずれると、抑制機《ブレーキ》も利かなくなって、夢中で遊びに耽《ふけ》っていたので、酒の醒《さ》めぎわなどには、何か冷たいものがひやりと背筋を走り、昔しの同窓の噂《うわさ》などを耳にすると、体が疼《うず》くような感じで飲んで遊んだりすることが真実《ほんとう》は別に面白いわけではなかった。ことに雨のふる夜更《よふ》けなどに養家において来た二人の子供のことを憶《おも》い出すと、荊《いばら》で鞭打《むちう》たるるように心が痛み、気弱くも枕《まくら》に涙することもしばしばであった。しかしほとんど酷薄ともいえる養家の仕打ちに対する激情が彼の温和な性質を、そこへ駆り立てた。
今はすでにその悪夢からもさめていたが、醒めたころには金も余すところ幾許《いくばく》もなかった。それでも気紛《きまぐ》れな株さえやらなかったら、新婚当時養家で建ててくれた邸宅まで人手に渡るようなことにもならなかったかも知れなかった。
そのころには世の中もかわっていた。放漫な財政の破綻《はたん》もあって、財界に恐慌が襲い来たり、時の政治家によって財政緊縮が叫ばれ、国防費がひどく切り詰められた。均平も学校を卒業するとすぐ、地方庁に官職をもったこともあるので、政治には人並みに興味があり、議会や言論界の動静に、それとなく注意を払ったものだったが、彼自身の生活がそれどころではなかった。それに官界への振出しに、地方庁で政党色の濃厚な上官と、選挙取締りのことなどで衝突して、即日辞表を叩《たた》きつけてからは、官吏がふつふついやになり、一時新聞の政治部に入ってみたこともあったが、それも客気の多い彼には、人事の交渉が煩わしく、じきに罷《や》めてしまい、先輩の勧めと斡旋《あっせん》で、三村の妹の婿《むこ》が取締をしている紙の会社へ勤めた。そこがしっくり箝《は》まっているとも思えないのであったが、田舎《いなか》に残っている老母が、どこでも尻《しり》のおちつかない、物に飽きやすい彼の性質を苦にして漢学者の父の詩文のお弟子であったその先輩に頼んで、それとなし彼を戒めたので、均平も少し恥ずかしくなり、意地にもそこで辛抱しようと決心したのであった。そしてそれが三村家の三女と結婚する因縁ともなり、三村家の別家の養子となる機縁ともなったのであった。
しかし均平にとって、三村家のそうした複雑な環境に身をおくことは、決して心から楽しいことでも、ありがたいことでもなかった。祖父以来儒者の家であった彼の家庭には、何か時代とそぐわぬ因習に囚《とら》われがちな気分もあると同時に、儒教が孤独的な道徳教の多いところから、保身的な独善主義に陥りやすく、そういうところから醸《かも》された雰囲気《ふんいき》は、均平にはやりきれないものであった。それが少年期から壮年期へかけての、明治中葉期の進歩的な時代の風潮に目ざめた均平に、何かしら叛逆的《はんぎゃくてき》な傾向をその性格に植えつけ、育った環境と運命から脱《ぬ》け出ようとする反撥心《はんぱつしん》を唆《そそ》らずにはおかなかった。それゆえ学窓を出て官界に入り、身辺の世のなかの現実に触れた時、勝手がまるで違ったように、上官や同僚がすべて虚偽と諂諛《てんゆ》の便宜主義者のように見えて仕方がなかった。しかしそっちこっち転々してみて、前後左右を見廻した果てに、いくらか人生がわかって来たし、人間の社会的に生きて行くべき方法も頷《うなず》けるような気がして、持前の圭角《けいかく》が除《と》れ、にわかに足元に気を配るようになり、養子という条件で三村の令嬢と結婚もしたのであったが、内面的な悲劇もまたそこから発生しずにはいなかった。
四
ここでは酒が飲めないので、均平は何か間のぬけた感じだったが、近頃はそう物にこだわらず、すべてを貴方《あなた》まかせというふうにしていればいられないこともないので、酒の払底な今の時代でも、格別不自由も感じなかった。もちろん心臓も少し悪くしていた。こうした日蔭者《ひかげもの》の気楽さに馴《な》れてしまうと、今更何をしようという野心もなく、それかと言って自分の愚かさを自嘲《じちょう》するほどの感情の熾烈《しれつ》さもなく、女子供を相手にして一日一日と生命を刻んでいるのであった。時にははっとするほど自分を腑効《ふがい》なく感じ、いっそ満洲《まんしゅう》へでも飛び出してみようかと考えることもあったが、あの辺にも同窓の偉いのが重要ポストに納まっていたりして、何をするにも方嚮《ほうこう》が解《わか》らず、自信を持てず、いざとなると才能の乏しさに怯《おじ》けるのであった。四十過ぎての蹉跌《さてつ》を挽回《ばんかい》することは、事実そうたやすいことでもなかったし、双鬢《そうびん》に白いものがちかちかするこ
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