の年になっては、どこへ行っても使ってくれ手はなかった。
二人が席を立つと、後連《あと》がもうやって来て、傍《そば》へ寄って来たが、それは中産階級らしい一組の母と娘で、健康そのもののような逞《たくま》しい肉体をもった十六七の娘は、無造作な洋装で、買物のボール箱をもっていた。均平は弾《はじ》けるような若さに目を見張り、笑顔《えがお》で椅子《いす》を譲ったが、今夜に限らず銀座辺を歩いている若い娘を見ると、加世子《かよこ》のことが思い出されて、暗い気持になるのだったが、同窓会の帰りらしい娘たちが、嬉《うれ》しそうに派手な着物を着て、横町のしる粉屋などへぞろぞろ入って行くのを見たりすると、その中に加世子がいるような気がして、わざと顔を背向《そむ》けたりするのだった。加世子が純白な乙女《おとめ》心に父を憎んでいるということも解っていた。そしてそれがまた一方銀子にとって、何となし好い気持がしないので、彼女の前では加世子の話はしないことにしていた。そのくせ銀子は内心加世子を見たがってはいた。
「いいじゃないの。加世子さん何不足なく暮らしているんだから。」
加世子の話をすると、均平はいつも凹《へこ》まされるのだったが、それは均平の心を安めるためのようでもあり、恵まれない娘時代を過ごした彼女の当然の僻《ひが》みのようでもあった。
階段をおりると、明るい広間の人たちの楽しそうな顔が見え、均平は無意識にその中から知った顔を物色するように、瞬間視線を配ったが、ここも客種がかわっていて、何かしら屈托《くったく》のなさそうな時代の溌剌《はつらつ》さがあった。
「いかがです、前線座見ませんか。」
映画狂の銀子が追い縋《すが》るようにして言った。彼女は大抵朝の九時ごろから、夜の十一時まで下の玄関わきの三畳に頑張《がんば》っていて、時には「風と共に去りぬ」とか、「大地」、「キュリー夫人」といった小説に読み耽《ふけ》るのだったが、デパート歩きも好きではなかったし、芝居も高いばがりで、相もかわらぬ俳優の顔触れや出しもので、テンポの鈍いのに肩が凝るくらいが落ちであり、乗りものも不便になって帰りが億劫《おっくう》であった。下町にいた十五六時代から、映画だけが一つの道楽で、着物や持物にも大した趣味がなかった。均平も退屈|凌《しの》ぎに一緒に日比谷《ひびや》や邦楽座、また大勝館あたりで封切りを見るのが、月々の行事になってしまったが、見る後から後から筋や俳優を忘れてしまうのであった。物によると見ていて筋のてんで解らないものもあって、彼女の解説が必要であった。
「さあ、もう遅いだろ。」
「そうね、じゃ早く帰って風呂《ふろ》へ入りましょう。」
銀子はでっくりした小躯《こがら》だが、この二三年めきめき肥《ふと》って、十五貫もあるので、ぶらぶら歩くのは好きでなかった。いつか奈良《なら》へ旅した時、歩きくたぶれて、道傍《みちばた》の青草原に、べったり坐ってしまったくらいだった。
銀子は途々《みちみち》車を掛け合っていたが、やがて諦《あきら》めて電車に乗ることにした。この系統の電車は均平にもすでに久しくお馴染《なじみ》になっており、飽き飽きしていた。
五
銀子の家《うち》は電車通りから三四町も入った処《ところ》の片側町にあったが、今では二人でちょいちょい出歩く均平の顔は、この辺でも相当見知られ、狭いこの世界の女たちが、行きずりに挨拶《あいさつ》したりすることも珍しくなかったが、均平には大抵覚えがなく、当惑することもあったが、初めほどいやではなくなった。それでも何か居候《いそうろう》のような気がして、これが自分の家という感じがしなかった。銀子も商売を始めない以前の一年ばかり、ここからずっと奥の方にあった均平の家へ入りこんでいたこともあって、子供もいただけに、もっといやな思いをしたのであったが、均平も持ちきれない感じで、「私はどうすればいいかしら」と苦しんでいるのを見ながら、どうすることもできなかった。そういう時に、自力で起《た》ちあがる腹を決めるのが、夙《はや》くから世間へ放《ほう》り出されて、苦しんで来た彼女の強味で、諦めもよかったが、転身にも敏捷《びんしょう》であった。今まではこの世界から足を洗いたいのが念願で、ましてこの商売の裏表をよく知っているだけに、二度と後を振り返らないつもりであったが、一度この世界の雰囲気《ふんいき》に浸った以上、そこで這《は》いあがるよりほかなかった。
「そう気を腐らしてばかりいても仕方がないから、ここで一つ思い切って置き家を一軒出してみたらどうかね。」
母が言うので銀子もその気になり、いくらかの手持と母の臍繰《へそく》りとを纏《まと》めて株を買い、思ってもみなかったこの商売に取りついたのだった。銀子の気象と働きぶりを知ってい
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