るものは、少し頭を下げて行きさえすれば、金はいくらでも融通してくれる人もあり、その中には出先の女中で、小金を溜《た》めているものもあり、このなかで金を廻して、安くない利子で腹を肥やしているものもあったが、ともすると弱いものいじめもしかねないことも知っているので、たといどんな屋台骨でも、人に縋《すが》りたくはなかった。ともかく当分自前で稼《かせ》ぐことにして路次に一軒を借り、お袋や妹に手伝ってもらって、披露目《ひろめ》をした。案じるほどのこともなく、みんなが声援してくれた。
「ああ、その方がいいよ。」
 見番の役員もそう言って悦《よろこ》んでくれ、銀子も気乗りがした。
「大体あんたは安本《やすもと》を出て、家をもった時に始めるべきだった。多分始める下工作だろうと思っていたら、いつの間にかあすこを引き払ってアパートへ移ったというから、つまらないことをしたものだと思っていたよ。」
 その役員がいうと、また一人が、
「それもいいが、子供のある処へ入って行くなんて手はないよ。第一三村さんは屋敷まで担保に入っているていうじゃないか。」
 銀子は好い気持もしなかったが、息詰まるような一年を振りかえると、悪い夢に襲われていたとしか思えず、二三年前に崩壊した四年間の無駄な結婚生活の失敗にも懲りず、とかく結婚が常住不断の夢であったために、同じことを繰り返した自分が、よほど莫迦《ばか》なのかしら、と思った。
「子供さんならいいと思っていたんだけれど、やはりむずかしいものなのね。」
 別にそう商売人じみたところもないので、銀子は加世子には懐《なつ》かれもしたが、それがかえって傍《はた》の目に若い娘を冒涜《ぼうとく》するように見えるらしかった。均平の亡くなった妻の姉が、誰よりも銀子に苦手であり、それが様子見に来ると、女中の態度まてががらり変わるのもやりきれないことであった。
 しかし均平との関係はそれきりにはならず、商売を始めてから、その報告の気持もあって、ある日忘れて来た袱紗《ふくさ》だとか、晴雨兼用の傘《かさ》などを取りに行くと、均平はちょうど、風邪《かぜ》の気味で臥《ふ》せっていたが、身辺が何だか寂しそうで、顎髭《あごひげ》がのび目も落ち窪《くぼ》んで、哀れに見えた。均平から見ると、宿酔《ふつかよ》いでもあるか、銀子の顔色もよくなかった。
「それはよかった。何かいい相手が見つかるだろう。」
 厭味《いやみ》のつもりでもなく均平は言っていた。

      六

 この辺は厳《きび》しいこのごろの統制で、普通の商店街よりも暗く、箱下げの十時過ぎともなると、たまには聞こえる三味線《しゃみせん》や歌もばったりやんで、前に出ている薄暗い春日燈籠《かすがどうろう》や門燈もスウィッチを切られ、町は防空演習の晩さながらの暗さとなり、十一時になるとその間際《まぎわ》の一ト時のあわただしさに引き換え、アスファルトの上にぱったり人足も絶えて、たまに酔っぱらいの紳士があっちへよろよろこっちへよろよろ歩いて行くくらいのもので、艶《なまめ》かしい花柳|情緒《じょうしょ》などは薬にしたくもない。
 広い道路の前は、二千坪ばかりの空地《あきち》で、見番がそれを買い取るまでは、この花柳界が許可されるずっと前からの、かなり大規模の印刷工場があり、教科書が刷られていた。がったんがったんと単調で鈍重な機械の音が、朝から晩まで続き、夜の稼業《かぎょう》に疲れて少時間の眠りを取ろうとする女たちを困らせていたのはもちろん、起きているものの神経をも苛立《いらだ》たせ、頭脳《あたま》を痺《しび》らせてしまうのであった。しかし工場の在《あ》る処《ところ》へ、ほとんど埋立地に等しい少しばかりの土地を、数年かかってそこを地盤としている有名な代議士の尽力で許可してもらい、かさかさした間に合わせの普請《ふしん》で、とにかく三業地の草分が出来たのであった。まだ形態が整わず、組織も出来ずに、日露戦争で飛躍した経済界の発展や、都市の膨脹につれて、浮き揚がって来たものだが、自身で箱をもって出先をまわったような元老もまだ残存しているくらいで、下宿住いの均平がぶらぶら散歩の往《ゆ》き返りなどに、そこを通り抜けたこともあり、田舎《いなか》育ちの青年の心に、御待合というのが何のことか腑《ふ》におちないながらに、何か苦々しい感じであった。その以前はそこは馬場で、菖蒲《しょうぶ》など咲いていたほど水づいていた。この付近に銘酒屋や矢場のあったことは、均平もそのころ薄々思い出せたのだが、彼も読んだことのある一葉という小説家が晩年をそこに過ごし、銘酒屋を題材にして『濁り江』という抒情的《じょじょうてき》な傑作を書いたのも、それから十年も前の日清《にっしん》戦争の少し後のことであった。そんな銘酒屋のなかには、この創始時代の三業に加
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