とに今日初めて見る風景でもなかったが、食事前後にわたってかなり長い時間のことなので、ナイフを使いながら窓から見下ろしている均平の目に、時節柄異様の感じを与えたのも無理はなかった。
ここはおそらく明治時代における文明開化の発祥地で、またその中心地帯であったらしく、均平の少年期には、すでに道路に煉瓦《れんが》の鋪装が出来ており、馬車がレールの上を走っていた。ほとんどすべての新聞社はこの界隈《かいわい》に陣取って自由民権の論陣を張り、洋品店洋服屋洋食屋洋菓子屋というようなものもここが先駆であったらしく、この食堂も化粧品が本業で、わずかに店の余地で縞《しま》の綿服に襷《たすき》がけのボオイが曹達水《ソーダすい》の給仕をしており、手狭な風月の二階では、同じ打※[#「※」は「にんべん+分」、第3水準1−14−9、323−下22]《いでたち》の男給仕が、フランス風の料理を食いに来る会社員たちにサアビスしていた。尾張町《おわりちょう》の角に、ライオンというカフエが出来、七人組の美人を給仕女に傭《やと》って、慶応ボオイの金持の子息《むすこ》や華族の若様などを相手にしていたのもそう遠いことではなかった。そのころになると、電車も敷けて各区からの距離も短縮され、草|蓬々《ぼうぼう》たる丸の内の原っぱが、たちどころに煉瓦《れんが》造りのビル街と変わり、日露戦争後の急速な資本主義の発展とともに、欧風文明もようやくこの都会の面貌《めんぼう》を一新しようとしていた。銀座にはうまい珈琲《コオヒー》や菓子を食べさす家《うち》が出来、勧工場《かんこうば》の階上に尖端的《せんたんてき》なキャヴァレイが出現したりした。やがてデパートメントストアが各区域の商店街を寂れさせ、享楽機関が次第に膨脹するこの大都会の大衆を吸引することになるであろう。
この裏通りに巣喰《すく》っている花柳界も、時に時代の波を被《かぶ》って、ある時は彼らの洗錬された風俗や日本髪が、世界戦以後のモダアニズムの横溢《おういつ》につれて圧倒的に流行しはじめた洋装やパーマネントに押されて、昼間の銀座では、時代錯誤《アナクロニズム》の可笑《おか》しさ身すぼらしさをさえ感じさせたこともあったが、明治時代の政権と金権とに、楽々と育《はぐく》まれて来たさすが時代の寵児《ちょうじ》であっただけに、その存在は根強いものであり、ある時は富士や桜や歌舞伎《かぶき》などとともに日本の矜《ほこ》りとして、異国人にまで讃美されたほどなので、今日本趣味の勃興《ぼっこう》の蔭《かげ》、時局的な統制の下に、軍需景気の煽《あお》りを受けつつ、上層階級の宴席に持て囃《はや》され、たとい一時的にもあれ、かつての勢いを盛り返して来たのも、この国情と社会組織と何か抜き差しならぬ因縁関係があるからだとも思えるのであった。
「今夜はとんぼ[#「とんぼ」に傍点]あたりで、大宴会があるらしいね。」
均平は珈琲を掻《か》きまわしながら私語《ささや》いた。
生来ぶっ切ら棒の銀子は、別に返辞もしなかったが、彼女は彼女でそんなことよりも、もっと細かいところへ目を注いでいて、車のなかに反《そ》りかえっている女たちの服装について、その地や色彩や柄のことばかり気にしていた。それというのも彼女もまた場末とはいいながら、ひとかどの芸者の抱え主として、自身はお化粧|嫌《ぎら》いの、身装《みなり》などに一向|頓着《とんじゃく》しないながらに、抱えのお座敷着には、相当金をかける方だからであった。それも安くて割のいいものを捜すとか、古いものを押っくり返し染め返したり、仕立て直したり、手数をかけるだけの細かい頭脳《あたま》を働かすことはしないで、すべて大雑把《おおざっぱ》にてきぱき捌《さば》いて行く方で、大抵は呉服屋まかせであったが、商売人の服装には注意を怠らなかった。
「この花柳界は出先が遠くて、地理的に不利益だね。」
均平は呟《つぶや》きながら、いつか黄昏《たそがれ》の色の迫って来る街《まち》をぼんやり見ていた。
三
均平は、こんな知明の華《はな》やかな食堂へなぞ入るたびに、今ではちょっと照れ気味であった。今から十年余も前の四十前後には、一時ぐれていた時代もあって、ネオンの光を求めて、そのころ全盛をきわめていたカフエへ入り浸ったこともあり、本来そう好きでもない酒を呷《あお》って、連中と一緒に京浜国道をドライブして本牧《ほんもく》あたりまで踊りに行ったこともあったが、そのころには船会社で資産を作った養家から貰《もら》った株券なども多少残っていて、かなり派手に札びらを切ることもできたのだが、今はすっかり境遇がかわっていた。今から回想してみるとそのころの世界はまるで夢のようであった。これという生産力もなくて、自暴《やけ》気味でぐれ出したのがだんだん嵩《
前へ
次へ
全77ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング