たことがないから、往ってみたいわ。」
「それでもいいね。」
「貴方《あなた》がいやなら諏訪《すわ》あたりで待っててもいいわ。」
「それでもいいし、君も商売があるから、一人で行ってもいい。」
「そう。」
銀子にはこの親子の感情は不可解に思えた。三村家で二人を引き取り、不安なく暮らしている以上、その上の複雑な愛情とが憎悪とかいうようなむずかしい人情は、無駄だとさえ思えた。彼女はまだ若かった父や母に猫《ねこ》の子のように育てられて来た。銀子の素直で素朴《そぼく》な親への愛情は、均平にも羨《うらや》ましいほどだった。
二
汽車が新緑の憂鬱《ゆううつ》な武蔵野《むさしの》を離れて、ようやく明るい山岳地帯へ差しかかって来るにつれて、頭脳《あたま》が爽《さわ》やかになり、自然に渇《かつ》えていた均平の目を愉《たの》しましめたが、銀子も煩わしい商売をしばし離れて、幾月ぶりかで自分に還《かえ》った感じであった。少女たちの特殊な道場にも似た、あの狭いところにうようよしている子供たちの一人々々の特徴を呑《の》み込み、万事要領よくやって行くのも並大抵世話の焼けることではなかった。
均平もあの環境が自分に適したところとは思えず、この商売にも好感はもてなかったが、ひところの家庭の紛紜《いざこざ》で心の痛手を負った時、彼女のところへやって来ると、別に甘い言葉で慰めることはしなくても、普通商売人の習性である、懐《ふところ》のなかを探るようなこともなく、腹の底に滓《おり》がないだけでも、爽《さわ》やかな風に吹かれているような感じであった。それにもっと進歩した新しい売淫《ばいいん》制度でも案出されるならいざ知らずとにかく一目で看通《みとお》しがつき、統制の取れるような組織になっているこの許可制度は、無下に指弾すべきでもなかった。雇傭《こよう》関係は自発的にも法的にも次第に合理化されつつあり、末梢的《まっしょうてき》には割り切れないものが残っていながら、幾分光りが差して来た。進歩的な両性の社交場がほかに一つもないとすれば、低調ながらも大衆的にはこんなところも、人間的な一つの訓練所ともならないこともなかった。
もちろん抱え主の側《がわ》から見た均平の目にも、物質以外のことで、非人道的だと思えることも一つ二つないわけではなく、それが男性の暴虐な好奇心から来ている点で、許せない感じもするのであった。それも銀子に話すと、
「果物《くだもの》は誰方《どなた》も青いうち食べるのが、お好きとみえますね。」
銀子は笑っていたが、その経験がないとは言えず、厠《かわや》へ入って、独りでそっと憤激の熱い涙を搾《しぼ》り搾りしたものだったが、それには何か自身の心に合点《がてん》の行く理由がなくてはならぬと考え、すべてを親のためというところへ持って行くよりほかなかった。
しかし銀子の抱えのうちには、それで反抗的になる子もあったが、傍《はた》の目で痛ましく思うほどではなく、それをいやがらない子もあり、まだ仇気《あどけ》ないお酌《しゃく》の時分から、抱え主や出先の姐《ねえ》さんたちに世話も焼かさず、自身で手際《てぎわ》よく問題を処理したお早熟《ませ》もあった。
猿橋《えんきょう》あたりへ来ると、窓から見える山は雨が降っているらしく、模糊《もこ》として煙霧に裹《つつ》まれていたが、次第にそれが深くなって冷気が肌に迫って来た。その辺でもどうかすると、ひどく戦塵《せんじん》に汚《よご》れ窶《やつ》れた傷病兵の出迎えがあり、乗客の目を傷《いた》ましめたが、均平もこの民族の発展的な戦争を考えるごとに、まず兵士の身のうえを考える方なので、それらの人たちを見ると、つい感傷的にならないわけに行かず、おのずと頭が下がるのであった。彼は時折出征中の均一のことを憶《おも》い出し、何か祈りたいような気持になり、やりきれない感じだったが、今療養所を訪れる気持には、いくらかの気休めもあった。
富士見へおりたのは四時ごろであった。小雨がふっていたが、駅で少し待っていると、誰かを送って来た自動車が還《かえ》って来て、それに乗ることができた。銀子はここを通過して、上諏訪《かみすわ》で宿を取ることにしてあったので、均平は独りで青嵐荘へと車を命じた。ここには名士の別荘もあり、汽車も隧道《トンネル》はすでに電化されており、時間も短いので、相当開けていることと思っていたが、降りて見て均平は失望した。もちろん途中見て来たところでは、稲の植えつけもまだ済まず、避暑客の来るには大分間があったが、それにしても、この町全体が何か寒々していた。
青嵐荘は町筋を少し離れた処《ところ》にあった。石の門柱が立っており、足場のわるいだらだらした坂を登ると、ちょうど東京の場末の下宿屋のような、木造の一棟《ひとむね》があり、
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