周囲《まわり》に若い檜《ひのき》や楓《かえで》や桜が、枝葉を繁《しげ》らせ、憂鬱《ゆううつ》そうな硝子窓《ガラスまど》を掠《かす》めていた。
三
玄関から声かけると、主婦らしい小肥《こぶと》りの女が出て来て、三村加世子がいるかと訊《き》くと、まだ冬籠《ふゆごも》り気分の、厚い袖《そで》無しに着脹《きぶく》れた彼女は、
「三村さんですか。お嬢さまは療養所へ行ってお出《い》でなさいますがね、もうお帰りなさる時分ですよ。どうぞお上がりなすって……。」
だだっ広い玄関の座敷にちょっとした椅子場《いすば》があり、均平をそこでしばらく待たせることにして、鄙《ひな》びた菓子とお茶を持って来た。風情《ふぜい》もない崖裾《がけすそ》の裏庭が、そこから見通され、石楠《しゃくなげ》や松の盆栽を並べた植木|棚《だな》が見え、茄子《なす》や胡瓜《きゅうり》、葱《ねぎ》のような野菜が作ってあった。
「療養所はこの町なかですか。」
「いいえ、ちょっと離れとりますが、歩いてもわけないですよ。何なら子供に御案内させますですが。」
均平はそれを辞し、病院は明朝《あした》にすることにした。主婦の話では、このサナトリウムはいつも満員で、この山荘にいる人で、部屋の都合のつくのを待っているのもあり、近頃病院の評判が非常にいいから、均一もきっと丈夫になるに違いないが、少し時日がかかるような話だというのであった。
「そうですか。今年一杯もかかるような話ですか。」
「何でも本当に丈夫になるには、来年の春まで病院にいなければならないそうですよ。」
病気がそう軽くないということが、正直そうな主婦の口吻《くちぶり》で頷《うなず》けた。
それからこの辺のこのごろの生活に触れ、昔は米などは残らず上納し、百姓は蜀麦《とうもころし》や稷《きび》のようなものが常食であり、柿《かき》の皮の干したのなぞがせいぜい子供の悦《よろこ》ぶ菓子で、今はそんな時勢から見ると、これでもよほど有難い方だと、老人たちが言っているというのであった。
均平は少し退屈を感じ、玄関をおりて外へ出てみた。駄荷馬などの砂煙をあげて行く道路を隔てて谷の向うに青い山がそそり立ち、うねった道路の果てにも、どっしりした山が威圧するように重なり合って見え、童蒙《どうもう》な表情をしていた。均平は町の様子でも見ようと思い、さっき通って来た方へ歩いて行ったが、寂しいこの町も見慣れるにつれて、人の姿も目について来て、大通りらしい処《ところ》へ出ると、かなりの薬局や太物屋、文房具屋などが、軒を並べていた。
ある八百屋《やおや》の店で、干からびたような水菓子を買っている加世子と女中の姿が、ふと目につき、均平は思わず立ち停《ど》まった。加世子は水色のスウツを着て、赤い雨外套《あまがいとう》を和服の女中の腕に預け、手提《てさげ》だけ腕にかけていたが、この方はしばらく見ないうちに、すっかり背丈《せたけ》が伸び、ぽちゃっとしたところが、均平の体質に似ていた。土間に里芋が畑の黒土ごと投《ほう》り出されてあった。
均平が寄って行くと、加世子がすぐ気づいた。頬《ほお》を心持赤くしていた。
「あら。」
「今帰って来たのか。」
「え、ちょっと療養所へ行って来ましたの。」
「どんな様子かしら。」
加世子はそれについて、いずれ後でというふうで、何とも言わなかった。
「お手紙ありがとう。」
「いいえ。」
紙にくるんだ夏蜜柑《なつみかん》にバナナを、女中が受け取ると、やがて三人で山荘の方へ歩き出した。
「お兄さまそう心配じゃないんですけど……多分この一ト冬我慢すればいいんでしょうと思います。」
「そうですか。すぐ行ってみようかと、実は思ったけれど、興奮するといけないと思って。」
「何ですか来てほしいようなことを言うんですの。それでお手紙差し上げましたの。」
聞いてみると、故郁子の姉の子加世子には従兄《いとこ》の画家|隆《たかし》も来ているらしかった。
四
雨がぽつりぽつり落ちて来たので、三人は石高な道を急いで宿へ帰って来た。
ちょうど入笠山《にゅうがさやま》あたりのハイキングから帰って来たらしい、加世子の従兄と登山仲間の友人とが、裏の井戸端《いどばた》で体をふいているところだったが、加世子が見つけて、縁端《えんばな》へ出て言葉を交している工合《ぐあい》が、どうもそうらしいので、均平も何か照れくさい感じでそのまま女中の案内で二階の加世子の部屋へ通った。
部屋はたっぷりした八畳で、建具ががたがたで畳も汚かったが、見晴らしのいいので助かっていた。床脇《とこわき》の棚《たな》のところに、加世子のスウツケースや風呂敷包《ふろしきづつみ》があり、不断着が衣紋竹《えもんだけ》にかかっており、荒く絵具をなすりつけた小さい絵も
前へ
次へ
全77ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング