あたま》のぼやけたものにはちょっと理解ができないくらいだが、簿記台のなかには帳面の数も殖《ふ》えていた。銀子の今までの、抱え一人々々の毎日々々の出先や玉数《ぎょくかず》を記した幾冊かの帳面のほかに、時々警察の調査があり、抱えの分をよくするような建前から、規定の稼《かせ》ぎ高の一割五分か二割を渡すほかは、あまり親の要求に応じて、子供の負担になるような借金をさせないことなどの配慮もあって、子供自身と抱え主とで、おのおのの欄に毎日の稼《かせ》ぎ高を記入するなどの、係官の前へ出して見せるための、めいめいの帳簿も幾冊かあって、銀子はそれを煩《うる》さがる均平に一々頼むわけにも行かず、抱え主の分を自身で明細に書き入れるのであった。勘定のだらしのないのは、大抵のこの稼業《かぎょう》の女の金銭問題にふれたり、手紙を書いたりするのを、ひどく億劫《おっくうう》がる習性から来ているのであったが、わざと恍《とぼ》けてずる[#「ずる」に傍点]をきめこんでいるのも多かった。
食事中、子供は留守中に起こったことを、一つ一つ思い出しては銀子に告げていたが、
「それからお母さん、砂糖|壺《つぼ》を壊しました。すみません。」
台所働きの子が好い機会《きっかけ》を見つけて言った。
「それから三村さんところへお手紙が……。」
均平はここでの習慣になっている「お父さん」をいやがるので、皆は苗字《みょうじ》を呼ぶことにしていた。
山 荘
一
簿記台のなかから、手紙を取り出してみると、それは加世子から均平に宛《あ》てたもので、富士見の青嵐荘《せいらんそう》にてとしてあった。涼しそうな文字で、しばらく山など見たことのない均平の頭脳《あたま》にすぐあの辺の山の姿が浮かんで来た。しかし開かない前にすぐ胸が重苦しくなって、いやな顔をしてちょっとそのまま茶盆の隅《すみ》においてみたりした。いつも加世子のことが気になっているだけに、どうしてあの高原地へなぞ行っているのかと、不安な衝動を感じた。
しばらくすると彼は袂《たもと》から眼鏡を出して、披《ひら》いてみた。そして読んでみると、帰還以来陸軍病院にずっといた長男の均一が、大分落ち着いて来たところからついこのごろ家《うち》に還《かえ》され、最近さらにここの療養所に来ているということが解《わか》ったが、父親に逢《あ》いたがっているから、来られたら来てくれないかと、簡単に用事だけ書いてあった。
均一と均平の親子感情は、決して好い方とは言えなかった。それはあまりしっくりも行っていなかった。家付き娘以上の妻の郁子《いくこ》との夫婦感情を、そのまま移したようなものだったが、郁子が同じ病気で死んで行ってから主柱が倒れたように家庭がごたつきはじめた時、均平の三村本家に対する影が薄くなり、存在が危くなるとともに、彼も素直な感情で子供に対することができなくなり、子供たちも心の寄り場を失って、感傷的になりがちであった。均一は学課も手につかず喫茶店やカフエで夜を更《ふ》かし煙草《たばこ》や酒も飲むようになった。
泰一という郁子の兄で、三村家の相続者である均一の伯父《おじ》が、彼を監視することになり、その家へ預けられたが、泰一自身均平とは反《そ》りが合わなかったので、均一の父への感情が和《なご》むはずもなかった。それゆえ出征した時も、入院中も均平はちょっと顔を合わしただけで、お互いに胸を披《ひら》くようなことはなかった。均一は工科を卒業するとすぐ市の都市課に入り、三月も出勤しないうちに、第一乙で徴召され、兵営生活一年ばかりで、出征したのだったが、中学時代にも肋膜《ろくまく》で、一年ばかり本家の別荘で静養したこともあった。
手紙を読んだ均平の頭脳《あたま》に、いろいろの取留めない感情が往来した。早産後妻が病院で死んだこと、そのころから三村本家の人たちの感情がにわかに冷たくなり、自分の気持に僻《ひが》みというものを初めて経験したこと、郁子の印鑑はもちろん、名義になっている公債や、身につけていた金目の装身具など、誰かいつの間にもって行ったのか、あらかたなくなっていたことも不愉快であった。均平はそれを口にも出さなかったが、物質に生きる人の心のさもしさが哀れまれたり、先輩の斡旋《あっせん》でうっかりそんな家庭に入って来た自身が、厭《いと》わしく思えたりした。世話した先輩にも、どうしてみようもなかったが、均平も醜い争いはしたくなかった。
「どうしたんです。」
均平が黙って俛《うつむ》いているので、銀子はきいた。
「いや、均一が富士見へ行ってるそうで、己《おれ》に逢いたいそうだ。」
「よほど悪いのかしら。」
「さあ。」
「いずれにしても、加世子さんからそう言って来たのなら、行ってあげなきゃ……何なら私も行くわ。中央線は往《い》っ
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