りほかないんだ。現に商売が成り立ってる人もあるじゃないか。」
「それはそうなのよ。世話のやける抱えなんかおくより自分の体で働いた方がよほど気楽だというんで、いい姐《ねえ》さんが抱えをおかないでやってる人もあるし、桂庵《けいあん》に喰われて一二年で見切りをつけてしまう人もあるわ。かと思うと抱えに当たって、のっけ[#「のっけ」に傍点]からとんとん拍子で行く人もたまにはあるわ。」
つまり好いパトロンがついていない限り、商売は小体《こてい》に基礎工事から始めるよりほかなかった。何の商売もそうであるように、金のあるものは金を摺《す》ってしまってからやっと商売が身につくのであった。
とにかく銀子は、いろいろの人のやり口と、自身の苦い経験から割り出して抱えはすべて仕込みから仕上げることに方針を決めてしまい、それが一人二人順潮に行ったところから、親父《おやじ》の顔のひろい下町の場末へ手をまわして、見つかり次第、健康さえ取れれば、顔はそんなによくなくても取ることにした。
「あんなのどうするんだい。」
粒をそろえたいと思っている均平が言うと、銀子は、
「あれでも結構物になりますよ。」
と言って、こんな子がと思うようなのが、すばらしく当たった例を二つ三つ挙げてみせた。
「だからこれだけは水ものなのよ。一年も出してみて、よんど駄目なら台所働きにつかってもいいし、芸者がなくなれば、あんなのでも結構時間過ぎくらいには出るのよ。」
もちろん見てくれがいいから出るとも限っていなかった。いくら色や愛嬌《あいきょう》を売る稼業《かぎょう》でも、頭脳《あたま》と意地のないのは、何年たっても浮かぶ瀬がなかった。
八
銀子は誰が何時に出て、誰がどこへ行っているかを、黒板を見たり子供に聞いたりしていたが、するうちお酌《しゃく》がまた一人かかって来て、ちょっと顔や頭髪《あたま》を直してから、支度《したく》に取りかかった。そしてそれが出て行くとそこらを片着け多勢の手で夕飯の餉台《ちゃぶだい》とともにお櫃《はち》や皿小鉢《さらこばち》がこてこて並べられ、ベちゃくちゃ囀《さえず》りながら食事が始まった。
この食事も、彼女たちのある者にとっては贅沢《ぜいたく》な饗宴《きょうえん》であった。それというのも、銀子自身が人の家に奉公して、餒《ひも》じい思いをさせられたことが身にしみているので、たとい貧しいものでも、腹一杯食べさせることにしていたからで、出先の料亭《りょうてい》から上の抱えが、姐《ねえ》さんへといって届けさせてくれる料理まで子供たちの口には、少しどうかと思われるようなものでも、彼女は惜しげもなく「これみんなで頒《わ》けておあがり」と、真中へ押しやるくらいにしているので、来たての一ト月くらいは、顔が蒼《あお》くなるくらい、餓鬼のように貪《むさぼ》り食べる子も、そうがつがつしなくなるのであった。子供によっては親元にいた時は、欠食児童であり、それが小松川とか四ツ木、砂村あたりの場末だと、弁当のない子には、学校で麺麦《パン》にバタもつけて当てがってくれるのであったが、この界隈《かいわい》の町中の学校ではそういう配慮もなされていないとみえて、最近出たばかりのお酌の一人なぞは、お昼になると家へ食べに行くふりをして、空腹《すきばら》をかかえてその辺をぶらついていたこともたびたびであり、また一人は幾日目かに温かい飯に有りついて、その匂いをかいだ時、さながら天国へ昇ったような思いをするのであった。この子は二人の小さい仕込みと同じ市川に家があるので、大抵兵営の残飯で間に合わすことにしていたが、多勢の兄弟があり、お櫃の底を叩《たた》いて幼い妹に食べさせ、自身はほんの軽く一杯くらいで我慢しなければならないことも、いつもの例で、みんなで彼女たちは彼女たちなりの身のうえ話をしているとき、ふとそれを言い出して互いに共鳴し、目に涙をためながら、笑い崩れるのであった。もちろん銀子にだって、それに類した経験がないことはなかった。彼女は食いしん棒の均平と、大抵一つ食卓で、食事をするのだったが、時には子供たちと一緒に、塗りの剥《は》げた食卓の端に坐って、茄子《なす》の与市漬《よいちづけ》などで、軽くお茶漬ですますことも多かった。そしてその食べ方は、人の家の飯を食べていた時のように、黙祷《もくとう》や合掌こそしないが、どうみても抱えであった時分からの気習が失《う》せず、子供たちの騒々しさや晴れやかさの中で、どこかちんまりした物静かさで、おしゃべりをしたり傍見《わきみ》をしたりするようなこともなかった。
非常時も、このごろのように諸般の社会相が、統制の厳《きび》しさ細かさを生活の末梢《まっしょう》にまで反映して、芸者屋も今までの暢気《のんき》さではいられなかった。人員の統制が、頭脳《
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