《まね》をするもんじゃないわよ。」
「悪かったわね。貴女のお座敷へ来て貴女の顔を潰《つぶ》すなんて。何しろ貴女には若ーさんという人が附いているんですからね。お蔭《かげ》で少し恰好《かっこう》がついたかと思うと、もうこの始末だ。」
「悪いわよ、有りもしないことを言って、貴女若ーさんの気持を悪くするばかりじゃないか。」
そうなると分けの染福より丸の晴子を庇護《かば》うのが、姐《あね》芸者の気持であり、春次も染福を抑え、
「貴女《あんた》も酔っているから、お帰んなさい。」
と手を取って引き起こそうとしたが、染福はそれを振り払い、
「いいわよ。私何も有りもしないことを言ってるんじゃないんだから。」
「それは貴女の誤解だよ。後で話せば解《わか》ることだよ。もういいからお帰んなさい。」
春次が引き立てるので、銀子もどうせ暴露《ばれ》ついでだと思い、
「帰れ、帰れ。」
と目に涙をためて叫んだ。
しかしその時に限らず、ちょうどその五六日前にも、銀子たちは三台の車に分乗し、伊沢も仲間入りして、春よしのお神に引率され、羽田の穴守《あなもり》へ恵方詣《えほうまい》りに行き、どうかした拍子に、銀子は春次と一緒に乗っている伊沢の車に割り込み、染福が一人乗りおくれてまごまごしているのを見たが、穴守へついてからも、染福の銀子を見る目が嶮《けわ》しく光り、銀子は何のこととも解らず、謎《なぞ》を釈《と》くのに苦しんだが、深く気にも留めず、帰りは一台の車にタイヤのパンクがあり、いっそ三台とも乗りすてて、川崎から省線で帰ることにしたのだったが、松の内のことで、彼女たちは揃《そろ》って出の支度《したく》であり、縁起ものの稲穂の前插《まえざ》しなどかざして、しこたま買いこんだ繭玉《まゆだま》や達磨《だるま》などをてんでにぶら下げ、行きがけの車に持ち込んだウイスキーと、穴守のお茶屋で呑《の》んだ酒にいい加減酔っていたので、染福は何かというと銀子に絡《から》んで来るのだった。
暮の中洲《なかず》で秘密に逢《あ》った銀子と伊沢は、春次が気を利かして通しておいた鍋《なべ》のものにも手をつけず、やがて待合を出て女橋を渡り、人目をさけて離れたり絡んだり、水天宮の裏通りまで来て、袂《たもと》を分かったのだったが、例の癲癇《てんかん》もちの稲次の穴埋めに、オーロラの見えるという豊原からやって来た染福は、前身が人の妾《めかけ》であり、棄《す》てられて毒を仰いで死にきれず、蘇生《そせい》して東京へ出て来たものだったが、気分がお座敷にはまらず、金遣《かねづか》いも荒いところから、借金は殖《ふ》える一方であり、苦しまぎれの自棄《やけ》半分に、伊沢にちょっかいを出したものだった。
さんざんに銀子とやり合った果てに、太々《ふてぶて》しく席を蹴立《けた》てて起《た》ち、段梯子《だんばしご》をおりる途端に裾《すそ》が足に絡み、三段目あたりから転落して、そのまま気絶してしまった。
十一
二月の半ば、余寒の風のまだ肌にとげとげしいころ、銀子は姉芸者二人に稲福、小福など四五人と、田所町《たどころちょう》のメリンスの風呂敷問屋《ふろしきどんや》の慰安会にサ―ビスがかりを頼まれ、一日|鶴見《つるみ》の花月園へ行ったことがあった。その時分には病院へ担《かつ》ぎこまれた染福も、酔っていたのがかえって幸いで、思ったほどの怪我《けが》でもなく、二週間ばかりで癒《なお》ったが、家《うち》へ還《かえ》りにくく、半ば近くになっていた前借を踏んで、どことも知らず姿を消してしまい、新橋から住み替えて来た北海道産の梅千代という妓《こ》も、日本橋通りの蝙蝠傘屋《こうもりがさや》に落籍《ひか》され、大観音の横丁に妾宅《しょうたく》を構えるなど、人の出入りが多く、春よしも少し陣容が崩れていた。子供に思いやりのないお神の仕方も確かに原因の一つで、食事時にはきまって冷たい監視の目を見張り、立膝《たてひざ》で煙管《きせる》を喞《くわ》えながら盛り方が無作法だとか、三杯目にはもういい加減にしておきなさいとか、慳貪《けんどん》に辱《はずか》しめるのもいやだったが、病気した時の苛酷《かこく》な扱い方はことに非人間的であり、銀子も病毒のかなり全身に廻っていることを医者に警告されながら、処置を取らず、若林が妻と三人同時に徹底的な治療に努めたので、このごろようやく清浄を取り返すことができたのだった。
その日も銀子は、朝から熱を感じ悪寒がしていた。体が気懈《けだる》く頭心も痛かった。寒さ凌《しの》ぎに昨夜出先で風呂《ふろ》を貰《もら》い、お神がもう冷《さ》めているかも知れないから、瓦斯《ガス》をつけようというのを、酔っていた彼女はちょっと手を入れてみて、まだ熱そうだったので、そのまま飛びこみ、すっかり生温《なまぬる》にな
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