っていることが解《わか》ったが、温まろうと思い、しばらくじっとしているうちに、身内がぞくぞくして来た。
 今朝体の懈いのはそのせいだったが、それを言えば、
「私のせいじゃないよ。お前が悪いんじゃないか。」
 と逆捩《さかね》じを喰《く》うにきまっていた。
 この風呂敷の問屋は、芸者に関係者はなかったが、商談などの座敷に呼ばれ、お神が出入りの芝居者から押しつけられる大量の切符を、よく捌《さば》いてくれた。歌舞伎《かぶき》全盛の時代で、銀子たちも、帝劇、新富、市村と、月に二つや三つは必ず見ることになっており、若林も切符を押しつけられ、藤川や春よしのお神にもたかられた。お神は裏木戸の瀬川に余分の祝儀《しゅうぎ》をはずみ、棧敷《さじき》の好いところを都合させて、好い心持そうに反《そ》り返っているのだったが、銀子もここへ来てから、ようやく新聞や画報で見ていた歌舞伎役者の顔や芸風を覚え、お馴染《なじみ》の水天宮館で見つけた活動の洋画から、ついに日本の古典趣味の匂いを嗅《か》ぐのであった。よく若林と自動車で浅草へ乗り出し、電気館の洋物、土屋という弁士で人気を呼んでいるオペラ館の新派悲劇、けれん[#「けれん」に傍点]の達者な松竹座の福円などを見たものだったが、そのころ浅草を風靡《ふうび》しているものに安来節《やすぎぶし》もあった。
 花月園では、外で一と遊びすると、もう昼で、借りきりの食堂でたらふく飲み食い、芝居や踊りも見つくして三十四五の中番頭から二十四五の店員十数人と入り乱れ、鬼ごっこや繩飛《なわと》び、遊動木に鞦韆《ぶらんこ》など他愛なく遊んでいるうちに、銀子がさっきから仲間をはずれ、木蔭《こかげ》のロハ台に、真蒼《まっさお》な顔をして坐っているのに気がつき、春次も福太郎もあわてて寄って来た。
「どうかしたの晴《はア》ちゃん。今朝からどうも元気がないと思ったんだけれど、何だか変だよ。」
「風邪《かぜ》よ。」
 銀子は事もなげに言って、ロハ台を離れて歩こうとしたが、頭がふらふらして足ががくがくして、そのまま芝生のうえに崩れてしまった。
「ちょいとどうしたというの。歩けないの。」
「これあいけない。よほど悪いんだよ。」
 そういう福太郎や春次の声も、銀子の耳には微《かす》かに遠く聞こえるだけであった。
 銀子は春次の肩に凭《もた》れ、食堂に担《かつ》ぎこまれて、気付けや水を飲まされたが、銀子を春よしへ届けてから、いずれどこかで重立ったものだけの二次会を開くつもりだったので、店員の計らいでここは早く切り揚げ、省線で帰ることにした。
 銀子は半ば知覚を失い、寝ている顔のうえの窓から見える空や森の影も定かにはわからず、口を利くのも億劫《おっくう》で、夢現《ゆめうつつ》のうちに東京駅まで来て、そこから自動車で家まで運ばれた。
 車から卸され、狭い路次を二人の肩にもたれ、二階へ上がろうとする途端に、玄関口に立っている、妹の痩《や》せ細った蒼《あお》い顔がちらと目につき、口を動かそうとしたが、声が出ず、そのまま段梯子《だんばしご》を上がって奥の三畳に寝かされた。
 不断薄情に仕向けているだけに、容体ただならずと見てお神もあわて、さっそく電話で係りつけの医師を呼び、梅村医師が時を移さず駈《か》けつけて来たところで、診察の結果、それが急性の悪性肺炎とわかり、にわかに騒ぎ出した。

      十二

 食塩やカンフルの注射の反応が初めて現われ、銀子はようやく一週間の昏睡《こんすい》状態から醒《さ》めかけ、何かひそひそ私語《ささや》き合う人の声が耳に伝わり、仄《ほの》かな光の世界へ蘇《よみがえ》ったと思うと、そこに見知らぬ老翁の恐《こわ》い顔が見え、傍《そば》に白衣の看護婦や梅村医師、父やお神も顔を並べているのに気がつき、これが臨終なのかとも思われた。若林もお神の電話で駈けつけ、最後の彼女を見守っていた。
「お銀しっかりするんだぞ。」
 父親が目を拭《ふ》きながら繰り返し呼んだが、頷《うなず》く力もなく、目蓋《まぶた》も重たげであった。
「晴子、お前何も心配することはないから安心しておいで。何か言いたいことがあったら、遠慮なし言ってごらん。」
 若林も耳に口を寄せ、呟《つぶや》くのだったが、銀子は後のことを頼むつもりらしく、何か言いたげに唇《くちびる》をぴくつかせるだけであった。彼女は頭も毬栗《いがぐり》で、頬《ほお》はげっそり削《そ》げ鼻は尖《とが》り、手も蝋色《ろういろ》に痩《や》せ細っていたが、病気は急性の肺炎に、腹膜と腎臓《じんぞう》の併発症があり、梅村医師が懇意ずくで来診を求めた帝大のM―老博士も首を捻《ひね》ったくらいであったが、不断から銀子に好感をもっていた医師は容易に匙《さじ》を投げず、この一週間というもの、ほとんど徹宵《よっぴて》付ききりで
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