っと呼ばれて、三味線《しゃみせん》を弾《ひ》くのだった。
 この男が来ていると、銀子は口がかかっても座敷へ行くのがひどく億劫《おっくう》であったり、座敷にいても今夜あたり来ていそうな気がして、落ち着かなかったりするのだったが、三四人輪を作ってトランプ遊びをしている時でも、伊沢と膝《ひざ》を並べて坐りでもすると、何となしぽっとした逆上気味《のぼせぎみ》になり、自分の気持を婉曲《えんきょく》に表現することもできず、品よく凭《もた》れかかる術《すべ》も知らないだけに、一層|牴牾《もどか》しさを感ずるのだった。
「晴《はア》さん、貴女《あんた》伊ーさんに岡惚《おかぼ》れしてるんだろう。」
 春次は銀子と風呂《ふろ》からの帰り路《みち》、蜜豆《みつまめ》をおごりながら言うのだった。
「あら姐《ねえ》さん……。」
 銀子は思わずぽっとなった。
「判ってますよ。――だっていいじゃないか。若《わ》ーさんはあんなお人よしで独りでよがっているんだし、たまに逢《あ》うくらい何でもありゃしない。」
 春次は唆《そそ》のかした。
「待っといで、私がそのうち巧く首尾してあげるから。傍《そば》で見ていても、じれったくって仕様がない。」
 春次は独りで呑《の》み込み、もう暮気分のある日の午後のことだったが、銀子は中洲《なかず》の待合から口がかかり、車で行ってみると、大川の見える二階座敷で、春次と伊沢がほんの摘《つま》み物くらいで呑んでいた。水のうえには荷物船やぽっぽ蒸汽が忙しそうに往来し、そこにも暮らしい感じがあった。伊井や河合《かわい》の根城だった真砂座《まさござ》は、もう無くなっていた。
 銀子は来たこともない家《うち》であり、こんな処《ところ》でも伊沢は隠れて遊ぶのかと思い、ちょっと妙な気もしたが、春次と二人きりでいるのも可笑《おか》しいと思い、この間の梅園での話が、そう急に実現するものとは想像もしていなかった。
「いらっしゃい。」
 伊沢はあらたまった口を利き、寒いから一つと言って猪口《ちょく》を差すので、銀子も素直に受け、一つ干して返した。
「今、何かあったかいものが来るから、晴さんゆっくりしていらっしゃいね。」
 春次は、わざわざ一つ二つ春よしの抱えの噂《うわさ》などをしてから、そんなことを言って、席をはずしたので、銀子は伊沢と二人きりになり、座敷にぎごちなさを感じたが、伊沢も同様であった。
「どうしたの一体。」
 銀子が銚子《ちょうし》をもつと、
「さあ、どうしたというんだか、己《おれ》の方からも訊きたいくらいだよ。」
 そう言って笑いながら注《つ》いで呑んだ。
「だけどね晴さん、率直に言っておくけれど、気を悪くしないでくれたまえ。」
 銀子は勝手がわからず、
「何さ。」
 と相手を見た。
「君も若ーさんという人があるんだろう。」
「そうよ。」
「だからせっかくだけれど、己はそういうことは大嫌《だいきら》いさ。ただ友達として清く附き合う分にはかまわないと思う。」
「どうでもいいのよ、私だって。」

      十

 春の七草に、若林は銀子のペトロンとして春よしの芸者全部に昼間の三時から約束をつけ、藤川へ呼んだ。年増《としま》の福太郎と春次は銀子と連れ立ち、出の着附けで相撲《すもう》の娘の小福を初め三人のお酌《しゃく》と、相前後して座敷に現われ、よそ座敷に約束のある芸者も、やがて屠蘇機嫌《とそきげん》で次ぎ次ぎに揃《そろ》い、揃ったかと思うと、屠蘇を祝い御祝儀《ごしゅうぎ》をもらって後口へ廻るものもあった。姐《ねえ》さん株の福太郎と春次が長唄《ながうた》の地方《じかた》でお酌が老松《おいまつ》を踊ると、今度は小稲が同じ地方で清元の春景色を踊るのだったが、酒がまわり席のやや紊《みだ》れた時分になって、自称女子大出の染福が、ヘベれけになって現われ、初めから計画的に酒を呷《あお》って来たものらしく、いきなり若林の傍に坐っている銀子の晴子に絡《から》んで来るのだった。
「やい晴子、お前このごろよほど生意気におなりだね。」
 銀子は訳がわからず、不断から仲のわるい染福のことなので、いい加減に遇《あしら》っていたが、高飛車に出られむっとした。
「何が生意気なのさ。」
「若ーさんの前ですがね、晴子という奴《やつ》はね、家のお帳場さんの伊ーさんに熱くなって、世間の噂《うわさ》ではちょいちょい、どこかで逢曳《あいびき》しているんだとさ。」
「何ですて? 私が伊ーさんと逢曳してるって? 春早々人聞きの悪いことを言うもんじゃないわよ。」
「大きにすまなかったね、みんなの前で素破《すっぱ》ぬいたり何かして。」
「貴女《あんた》は素破ぬいたつもりかも知らないけれど、私は平気だわ。貴女は一体ここを誰の座敷だと思っているの。仮にも人の座敷へ呼ばれて来て、気の利いたふうな真似
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