しているのだったが、時には後口がかかって来たりした。
銀子は今夜あたり製菓会社が来る時分だと思い、どうしたものかと思っていると、
「どうせここに用事はないんだから、せいぜい稼《かせ》いで来た方がいいよ。」
若林は言うのだが、お神はまた、
「そう商売気出さんかていいがな。」
と言うので、銀子も去就に迷い、生咬《なまが》みの叭《あくび》を手で抑えるのだった。
そうした近頃の銀子の素振りに気づいたのは、芸者の心理を読むのに敏感な髪結いのお梅さんであった。彼女は年も六十に近く、すでに四十年の余もこの社会の女の髪を手がけ、気質や性格まで呑《の》み込み、顔色で裡《うち》にあるものを嗅《か》ぎつけるのであった。年は取っても腕は狂わず、五人の梳手《すきて》を使って、立ち詰めに髷《まげ》の根締めに働いていた。客は遠くの花柳界からも来、歌舞伎《かぶき》役者や新派の女房などもここで顔が合い、堀留《ほりどめ》あたりの大問屋のお神などの常連もあるのだった。家は裕福な仕舞うた家のようで、意気な格子戸《こうしど》の門に黒板塀《くろいたべい》という構えであった。
「晴子さん、あんたこのごろ何考えてるんです?」
彼女は鏡に映る銀子の顔をちらと覗《のぞ》きながら、そっと訊《き》くのだった。
「どうしてです。」
銀子は反問した。
「何だか変ですよ。私この間から気になって、聞こう聞こうと思っていたんだけれど、貴女《あんた》の年頃にはとかく気が迷うもんですからね。ひょっとしたら、今の家《うち》に居辛《いづら》くて、住替えでもしたいんじゃないんですか。」
「別にそういうこともないんですけれど。」
「それなら結構ですがね。住替えもいいけれど、借金が殖《ふ》えるばかりだから、まあなるべくなら辛抱した方がよござんすよ。」
「そうだわね。」
「それとも何か岡惚《おかぼ》れでも出来たというわけですかね。」
「あらお師匠さん、飛んでもない。」
「それにしても何だか変ですよ、もしかして人にも言えない心配事でもあるんだったら、私いいこと教えてあげますよ。」
「どんなことですの。」
「日比谷《ひびや》に桜田|赤龍子《せきりゅうし》という、人相の名人があるんですがね、実によく中《あた》りますよ。何しろぴたりと前へ坐ったばかりで、その人の運勢がすっかりわかるんですからね。その代り見料は少し高《たこ》ござんすよ。」
「そう。」
「瞞《だま》されたと思って行ってごらんなさい。」
お梅さんはそう言って、道順を丁寧に教えるのだった。
銀子も心が動き、帰って春次に話してみた。
「人相なんて中るもの?」
「中るね。他のへっぽこ占ないは駄目よ。見てもらうのなら、桜田さんとこへ行ってごらんなさい。私が保証するから。」
そういう春次も信者の一人であり、その人相見の予言のとおりに、過去はもちろん現在の彼女の運命が在《あ》るのであった。
翌朝銀子は朝の十時ごろに家を出て、築地《つきじ》まわりの電車で行ってみた。ちょうど数寄屋橋《すきやばし》を渡って、最近出来たばかりの省線のガードの手前を左へ入った処《ところ》に、その骨相家の看板が出ていた。
「貴女は住替えした方がいいのう。」
半白の顎鬚《あごひげ》を胸まで垂らした老骨相家は言うのだった。
「住替えは赤坂に限る。赤坂へ住み替えれば運は必ず嚮《む》いて来るのう。ほかはいかん。」
まるで見当はずれなので、銀子は可笑《おか》しくもあり、赤坂の芸者屋と聯絡《れんらく》でも取っているのかとも思い、見料をおいて匆々《そうそう》にそこを出た。
九
永瀬はその後も三四度現われたが、銀子に若林のついていることが、薄々耳に入ったものらしく、次第に足が遠退《とおの》き、ふっつり音信が絶えてしまったが、藤川のお神が間に立って、月々の小遣《こづかい》や、移り替え時の面倒を見てくれている、ペトロンはペトロンとして、銀子も明ければもう二十歳で、花柳気分もようやく身に染《し》み、旦那《だんな》格の若林では何か充《み》たされないものを感じ、自由な遊び友達のほしい時もあった。そしてそういう相手が、ちょうど身近にあるのであった。
時々帳場の調べに来てくれて、抱えたちを相手にトランプを遊んだり、芝居や芸道の話をしてくれたり、真面目《まじめ》な株式の事務員としてどこか頼もしそうな風格の伊沢がそれで、その兄は被服廠《ひふくしょう》に近いところに、貴金属品の店をもっており、三十に近い彼はその二階で、気楽な独身生活をつづけ、たまには株も買ったりして、懐《ふところ》の温かい時は、春よしの子供を呼んで、歌沢や常磐津《ときわず》の咽喉《のど》を聞かせたりもした。坊主の娘だという一番|年嵩《としかさ》の、顔は恐《こわ》いが新内は名取で、歌沢と常磐津も自慢の福太郎が、そういう時き
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