を喰《く》うようなことはなかったにしても、倉持に封鎖されてからは、出先でも遠慮がち――というよりも融通の利く当てがなくなったところから、野心ある客にはたびたびは出せず、自然色気ぬきの平場《ひらば》ということになり、いくらかのんびりしていられるので、読もうと思えば本も読めないことはなかった。大抵の主人は抱えの読書を嫌《きら》い、厳《きび》しく封ずるのが普通で、東京でも今におき映画すら断然禁じている家《うち》も、少なくなかった。芸者の昼の時間もそう閑《ひま》ではなく、主人の居間から自分たちの寝る処の拭き掃除に、洗濯《せんたく》もしなければならず、お稽古も時には長唄《ながうた》に常磐津《ときわず》、小唄といったふうに、二軒くらいは行き、立て込んでいる髪結いで待たされたり、風呂に行ったりすると、化粧がお座敷の間に合わないこともあり、小説に耽《ふけ》れば自然日課が疎《おろそ》かになるという理由もだが、元来が主人が無智で、そのまた旦那《だんな》も浪花節《なにわぶし》のほかには、洋楽洋画はもちろん歌舞伎《かぶき》や日本の音曲にすら全然|鉄聾《かなつんぼ》の低級なのが多く、抱えが生半可《なまはんか》に本なぞ読むのは、この道場の禁物であり、ひところ流行《はや》った救世軍の、あの私刑にも似た暴挙が、業者に恐慌を来たしていた時代には、うっかり新聞も抱えの目先へ抛《ほう》り出しておけないのであった。法律で保護されていていないような状態におかれていた時代は永く続き、悪桂庵《あくけいあん》にかかり、芸者に喰われても、泣き寝入りが落ちとなりがちな弱い稼業《かぎょう》でもあった。人々は一見仲よく暮らしているように見えながら、親子は親子で、夫婦は夫婦で相喰《あいは》み、不潔物に発生する黴菌《ばいきん》や寄生虫のように、女の血を吸ってあるく人種もあって、はかない人情で緩和され、繊弱《かよわ》い情緒《じょうしょ》で粉飾《ふんしょく》された平和の裡《うち》にも、生存の闘争はいつ止《や》むべしとも見えないのであった。
 銀子も貧乏ゆえに、あっちで喰われこっちで喰われ、身を削《そ》いで親や妹たちのために糧《かて》を稼《かせ》ぐ女の一人なので、青年八百屋が彼女のために、何となしにジャン・バルジャンを読ませようとしたのも、意識したとしないにかかわらず、どこか理窟《りくつ》に合わないこともなさそうであった。
 銀子は主人や婆《ばあ》やの目を偸《ぬす》みながら、急速度で読んで行った。
「一片のパンから、こんなことになるものかな。」
 彼女はテイマの意味もよく解《わか》らないながらに、筋だけでも興味は尽きず、ある時は寝床のなかに縮こまりながら、障子が白々するのも気づかずに読み耽《ふけ》り、四五日で読んでしまった。
「これすっかり読んでしまったわ。とても面白かったわ。」
「解った?」
「解った。」
「じゃ明日また何かもって来てやろう。」
 今度は「巌窟王《がんくつおう》」であったが、婦人公論もおいて行った。
 ある晩方銀子は婦人公論を、膝《ひざ》に載せたまま、餉台《ちゃぶだい》に突っ伏して、ぐっすり眠っていた。主人夫婦は電話で呼ばれ、訴訟上の要談で、弁護士の家《うち》へ行っており、婆《ばあ》やは在方《ざいがた》の親類に預けてある子供が病気なので、昼ごろから暇をもらって出て行き、小寿々はお座敷へ行っていた。そのころ猪野の詐欺横領事件は、大審院まで持ち込まれ、審理中であるらしく、猪野はいつも憂鬱《ゆううつ》そうに、奥の八畳に閉じ籠《こ》もり、酒ばかり呑《の》んでいた。どうもそれが却下されそうな形勢にあるということも、銀子は倉持から聞いていた。渡弁護士は倉持には父方の叔父《おじ》であり、後見人でもあった。倉持は幼い時に父に訣《わか》れ、倉持家にふさわしい出の母の手一つに育てられて来たものだったが、法律家の渡弁護士が自然、主人|歿後《ぼつご》の倉持家に重要な地位を占めることとなり、年の若い倉持にほ、ちょっと目の上の瘤《こぶ》という感じで、母が信用しすぎていはしないかと思えてならなかった。倉持家のために親切だとも思えるし、そうでもないように思えたりして、法律家であるだけに、頼もしくもあり不安でもあった。それも年を取るにつれて、金銭上のことは一切自分が見ることになり、手がけてみると、この倉持の動産不動産の大きな財産にも見通しがつき、曖昧《あいまい》な点はなさそうであったが、今までに何かされてはいなかったかという気もするのだった。

      六

「おい、おい。」
 玄関わきの廊下から、声をかけるものがあるので、寿々龍の銀子は目をさまし、振り返って見ると、それが倉持であった。
 彼は駱駝《らくだ》の将校マントにステッソンの帽を冠《かぶ》り、いつもの通り袴《はかま》を穿《は》いていた。
「あら
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