どうしたの、遅がけだわね。」
「むむ、ちょっと銀行に用事があって、少し手間取ったものだから、途中自転車屋へ寄ったり何かして……。」
河《かわ》の上流にある倉持の家は、写真で見ても下手なお寺より大きい構えで、棟《むね》の瓦《かわら》に定紋の九曜星が浮き出しており、長々しい系図が語っているように、平家の落武者だというのはとにかくとしても、古い豪族の末裔《まつえい》であることは疑えない。
「倉持さんの家へ行ってごらん、とても大したもんだから。」
寿々廼家のお神も言っていたが、銀子にはちょっと見当もつきかねた。
彼は町へ出て来るのに、船で河を下るか、車で陸《おか》を来るかして、駅まで出て汽車に乗るのだったが、船も汽車に間に合わなくなると、通し車で飛ばすのだった。初め一二箇月のうちは、母が心配するというので、少しくらいおそくなっても大抵かえることにして、場所も駅に近い家に決めていたが、いずれも年が若いだけに人前を憚《はばか》り、今にも立ちあがりそうに腕時計を見い見い、思い切って帰りもしないで、結局腰を据《す》えそうになり、銀子もおどおどしながら、無言の表情で引き留め、また飲み直すのだったが、そういう時倉持はきまって仙台にいる、学校友達をだし[#「だし」に傍点]に使い、母の前を繕うのであった。二タ月三月たつと次第にそれが頻繁《ひんぱん》になり、寿々龍の銀子も寂しくなると、文章を上手に書く本家の抱えに頼んで、手紙を書いてもらったりするので、自然足が繁《しげ》くなるのだったが、倉持の家には、朝から晩まで家の雑用を達《た》してくれている忠実な男がいて、郵便物に注意し、女からのだと見ると、母に気取られぬように、そっと若主人に手渡しすることになっていた。
倉持も町から帰って行くと、別れたばかりの銀子にすぐ手紙をかき、母が自分を信用しきっているので、告白する機会がなくて困るとか、逢《あ》っている時は口へも出せなかったその時の感想とか、一日の家庭の出来事、自身の処理した事件の報告など純情を披瀝《ひれき》して来るので、銀子も顔が熱くなり、ひた向きな異性の熱情を真向《まとも》に感ずるのだった。
「僕いつもの処《ところ》へ行っているから君もすぐ来たまえ。そのままでいいよ。」
倉持はそう言って出て行ったが、銀子はちょっと顔を直し、子供に留守を頼んで家を出たが、そこは河に近い日和山《ひよりやま》の裾《すそ》にある料亭《りょうてい》で、四五町もある海沿いの道を車で通うのであった。そのころになると、この北の海にも春らしい紫色の濛靄《もや》が沖に立ちこめ、日和山の桜の梢《こずえ》にも蕾《つぼみ》らしいものが芽を吹き、頂上に登ると草餅《くさもち》を売る茶店もあって、銀子も朋輩《ほうばい》と連れ立ち残雪の下から草の萌《も》え出るその山へ登ることもあった。夜は沖に明滅する白魚舟の漁火《いさりび》も見えるのであった。
銀子が少しおくれて二階へ上がって行くと、女中がちょうど通し物と酒を運んで来たところで、どこかの部屋では箱も入っていた。いくらか日が永くなったらしく、海はまだ暮れきっていなかった。
倉持は何か緊張した表情をしていた。四五日前に来た時、彼は結婚の話を持ち出し、二晩も銀子と部屋に閉じ籠《こ》もっていたが、それは酒のうえのことであり、銀子もふわっと話に乗りながら、夢のような気持がしているのだったが、彼は今夜もその話を持ち出し、機会を作って一度母に逢わせるから、そのつもりでいてくれと言うので、昔亡父が母に贈ったというマリエージ・リングを袂《たもと》から出し、銀子の指にはめた。指環《ゆびわ》の台は純金であったが、環状《わなり》に並べた九つの小粒の真珠の真ん中に、一つの大きな真珠があり、倉持家の定紋に造られたもので、贈り主の父の母に対する愛情のいかに深かったかを示すものであり、それを偸《ぬす》み出して女に贈る坊っちゃんらしい彼の熱情に、銀子も少し驚きの目を見張っていた。
「そんなことしていいんですの。」
「僕は君を商売人だとは思っていないからそれを贈るんだ。受けてくれるだろう。」
「え、有難いと思うわ。」
七
桜の咲く五月ともなると、梅も桃も一時に咲き、嫩葉《わかば》の萌《も》え出る木々の梢《こずえ》や、草の蘇《よみが》える黒土から、咽《むせ》ぶような瘟気《いきれ》を発散し、寒さに怯《おび》えがちの銀子も、何となし脊丈《せたけ》が伸びるような歓《よろこ》びを感ずるのであった。暗澹《あんたん》たる水のうえを、幻のごとく飛んで行く鴎《かもめ》も寂しいものだったが、寝ざめに耳にする川蒸汽や汽車の汽笛の音も、旅の空では何となく物悲しく、倉持を駅まで送って行って、上りの汽車を見るのも好い気持ではなかった。東京育ちの、貧乏に痛めつけられて来たので、田舎《い
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